古典を読む


今は昔、兵衛佐平定文といふ人があった。あだ名を平中といった。人品賤しからず、容姿も男前であった。その上、立ち居振る舞いも話しぶりも優れていたので、これ以上の男は都にいないといってもよかった。それ故、人妻や娘は言うに及ばず、宮仕え人の中に、この平中に声をかけられたいと思わぬものはなかった。

村上春樹・和田誠の共著「ポートレイト・イン・ジャズ」は、和田誠が描いたジャズ・ミュージシャンの肖像画に、村上春樹が簡単な文章を添えたものだ。それぞれのジャズ・ミュージシャンに添えた村上の文章は、一時はジャズを自分の商売に取り入れていた村上らしく、ジャズに対する村上の、こだわりのようなものを感じさせる。

今は昔、若い僧があって、位の高い僧侶のもとに仕えておった。妻子も持っていた。その僧が主人のお供をして三井寺にいった際、夏の昼下がりのこととて、眠気に襲われ、広い部屋の一角で、長押を枕にして寝た。

今は昔、夏の頃のこと、若い女が近衛大路を西に向かって歩いておった。小一条の宗形神社の北側を行くうちに、小便がしたくなり、築垣に向かって腰を下ろして用を足した。供の女の童が通りで見張りをし、「早く終わらないかな」と思っていたが、午前8時頃から10時頃まで、2時間もしゃがんだままだった。

今は昔、某というところの山の中に、乞食が二人歩いていたが、その前を子を負った女が歩いておった。女は乞食どもが後ろから近づいてくるのを見ると、脇に立って乞食どもをやり過ごそうとしたが、乞食どもは、「いいから早く行け」といって、前に出ないので、女が再び歩き始めると、いきなり襲ってきた。

今は昔、日向ノ守に某というものがあった。任期が終わって次の守を待つ間、引継ぎの文書を書かせていたが、書生の中から優秀なのを選んで、そのものに古いことの書き直しをさせた。この書生は、「こんな風に書き直しをさせても、自分の口から本当のことを話されてはまずいと思って私を疑うかも知れぬ。あの男は人柄が良くないようだから、きっとひどい目に合わされるだろう。」と思うと、何とかして逃げたいと思うのだが、強そうなものが四五人、昼夜を分かたず見張っているので、逃げようもなかった。そうこうするうち二十日ばかりが過ぎ、文書は完成した。それを見た守は、「一人でこれだけの量を書いたとは感心だ。京へ上っても、このわしを頼るがいい」といって、褒美に絹を四疋くれた。

今は昔、平ノ貞盛ノ朝臣という兵があった。丹波の守として赴任中に、身に悪性の腫瘍ができたので、某という高名な医師を迎えて診察を請うに、医師は「大変な腫瘍ですが、男の子の胎児の生き胆を煎じて飲めばなおります。めったに処方しませぬが、日時がたてば効き目がなくなりますので、早く求めなさい」といって、退出した。

今は昔、京に住んでいた男があった。妻が丹波の国のものだったので、あるとき丹波まで妻を連れて行った。妻を馬に乗せ、自分は竹の箙に矢を10本差し、弓を握って馬の背後から歩いていった。大江山に差し掛かった頃、太刀を帯びた若い男と一緒になった。話し合うついでに、若い男が太刀を見せて、「この太刀は陸奥ノ国から伝わる逸品です、どうぞ見て御覧なさい」と太刀を抜いて見せた。見事な太刀であった。

今は昔、袴垂という盗人があった。盗みのとがで捕らえられ獄につながれていたところを、大赦にあって出獄したが、行く宛もなく、やることもないので、関山に行って、裸で死んだまねをして横たわった。

今は昔、摂津の国から盗みを働こうと京に上ってきた男があった。まだ日が高かったので、羅生門の下に立ち隠れしていると、朱雀通りのほうへ多くの人が歩いていく。男は人通りが静まるのを待とうと、門の下に立っていた。すると山城のほうから大勢の人の足音が聞こえてきた。男は見られてはまずいと思い、門の上によじり上った。

今は昔、美濃の国へ向かっていた下衆の男がいた。近江國の篠原というところをとおりがかった折、空が暗くなって雨が降ってきたので、「どこか雨宿りするところはないか」とあたりを見回したが、人気のない野原の真ん中とて、家らしきものはなかった。だが墓穴がひとつあるのを見つけて、そのなかに入り込んで、潜んでいると、日が暮れて暗くなってきた。

今は昔、七月ばかりに、大和國より多くの馬共に瓜を乗せて、下衆どもが京へ上っていった。宇治の北に、成らぬ柿の木という木があった。下衆どもはその木影にとどまって、瓜の籠を馬から下ろして休みながら、自分用にとっておいた瓜を取り出して食った。

今は昔、腹の中にサナダ虫を持っていた女がいた。某という人の妻になり、懐妊して男子を産んだ。その子の名は某といい、成人後出世して、ついに信濃守となった。

今は昔、信濃守藤原陳忠という人があった。任國の務めを終えて帰京する途中御坂に差し掛かった。多くの馬に人や荷を積んで坂を越えていくと、守の乗っていた馬がどうしたわけか、懸橋の端木に後ろ足を踏み外して、守もろとも真っ逆さまに落ちていった。

今は昔、右舎人から大蔵の丞になって、後には冠位を賜って大蔵大夫と呼ばれた紀助延というものがあった。若い頃、米を人に貸して利息を付けて返させたので、それがつもりに積もって四五万石にもなり、世の人はこれを万石の大夫と呼んだ。

今は昔、池尾という所に禅珍内供という僧が住んでいた。身を淨くして眞言をよく習い、修行怠りなかったので、堂塔・僧房なども荒れたところなく、常燈・佛聖なども絶えなかった。また季節ごとのお供えものやお説教も絶えなかったので、多くの僧が集まってきた。毎夜のように風呂を沸かして浴び、それは賑やかであった。それ故、寺の周りには多くの人が集まり住んだ。

今は昔、或る国の守の奥方のところに、祇園の別當で戒秀という定額僧が、忍び通いをしていた。守は此の事をうすうす知っていたが、知らないふりをしていた。

今は昔、左近の將曹にて秦武員という近衞舎人があった。禅林寺の僧正の御壇所に参上し、僧正が説教しているところへいって、久しく話を聞いているうちに、思いかけず屁を一発鳴らしてしまった。

今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等に、平貞道・平季武・坂田公時という三人の兵があった。皆押し出しが立派で、腕が立ち、勇気があって、思量深く、申し分がなかった。東国にいる頃もたびたび手柄を立て、人々に恐れられていたので、摂津守も、大事にして、召し使っていた。

今は昔、曝衣の月(二月)の初午の日は、京中のあらゆる階層の人が伏見の稲荷神社へお参りした。なかでも例年より多くの人がお参りした年があった。その日に、近衛の舎人たちもお参りをした。

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