推認と臆断はどう違うか:陸山会事件判決

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いわゆる陸山会事件をめぐる裁判の一審判決が出され、小沢一郎代議士の秘書ら3人に有罪判決が下された。三大新聞をはじめ大方のメディアは、この判決を当然のこととして受け止め、小沢一郎代議士の責任を改めて云々している。

だがほんとにそれでよいのか、と筆者はこの裁判に納得できないものを感じるのだ。

この裁判では検察の用意した供述証書が証拠として採用されないなど、検察の主張に大変な無理があると、関係者には理解されていた。実際検察は論告求刑の中で、供述や客観的な証拠を明示できず、状況証拠を羅列して、そこから被告らが有罪であることを推認してもらいたいなどといっていた。

「推認」とは、推測の上に立った認知活動のことだ。客観的な証拠にもとづく判断ではなく、情況の解釈にもとづく推論の一種だ。そんな推論で被告の有罪が確定されるとしたら、近代刑法の理念はどうなってしまうのか。そんな疑念をぬぐえなかったところへ、この判決が出たわけだ。

この判決にはいろいろな点で問題がある。推認で事実を断定するのも問題だが、それ以上に問題なのは、刑事訴訟法の骨格ともいえる「疑わしきは被告の利益に」という理念が骨抜きになっていることだ。

裁判官は、4億円の金をめぐる被告の説明に合理的なところがないから、被告は有罪だといっているに等しい。しかし、これでは説明責任を被告側にかぶせていることになる。裁判官に対してきちんと説明できなければ、有罪になっても当たり前という発想だ。

しかし近代刑法の理念はそうではあるまい。刑事事件の裁判では、検察側は被告の刑事責任を、客観的で疑いをいれない証拠に基づいて立証するというのが基本だ。検察が明白に立証できない限り、裁判所は被告の刑事責任を認めることはできない。

だが今回の裁判には、そうした客観的で誰の目にも疑いを入れないほど明白な証拠は存在しないといってよい。存在するのは推認という名の憶断だ。

裁判官が重大な要素として言及した「天の声」といっても、実際にその声を聞いたと証言しているものはいない。天の声が存在しているようだという憶断が紹介されているだけだ。

先日は検察官によるストーリー作りが問題になったばかりだが、今回のケースは裁判官によるストーリーづくりでないか、そんなことを感じさせる判決だった。





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日本人は、本当に礼儀正しいのか。
我々の礼儀作法は、序列差法である。序列なきところに礼儀なし。
日本語には階称 (言葉遣い) がある。
言葉遣いの意味を身振りで表わせば、序列差法になる。

日本人は、なぜ察し (勝手な解釈) を使うのか。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。
日本人には、意思がない。
それで、勝手な解釈を利用する。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
恣意は、文章に表わせない。アニマル・子供に共通である。
恣意は、相手により察しにより文章化される。
本人には、その内容に責任がないが、それは本人の意向とされることが多い。

日本語には階称 (言葉遣い) があるので、日本人は序列人間 (縦社会の人間) になる。
義理 (序列関係) がすたれば、この世は闇だ。
意思はなくても、恣意があるので、アニマル風に行動する。

意思のない日本人は、天の声により行動が定まる。自分自身で考える力はない。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
だから、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要に迫られることになる。
これは、昔からある浪花節でしょうね。

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