毛里和子「日中関係」を読む

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毛里和子著「日中関係」(岩波新書)を読んだ。戦後の日中関係の歴史を概観したもので、両国関係の過去を知るとともに、今日両国間で起きている様々な問題を理解するうえでも、なかなか参考になる。併せて、今後の日中関係のあり方についても、示唆に富んだ提言を行っている。

氏は戦後の日中関係の歴史を三つの時代に区分している。1972年以前の冷戦期とも言うべき時代、72年の日中国交正常化から90年代半ばまでの蜜月期とも称すべき時代、そして95年以降今日までの時代である。95年以降においては、中国の国力の高まりを反映して、日中間で互いに競い合うような場面が目立つようになり、2005年の反日デモの勃発以降は、互いに相手を警戒するような、険しい関係が生じるようになり、それが今日にまでくすぶっている、これが氏の基本的な見方だ。

冷戦時代における日本側の日中関係への取り組みは、アメリカの対中戦略に引きずられた形で、政府間で真剣な対話を持とうとする意欲を示さなかった。高まる民間貿易への経済界の要求に対しては、政経分離というかたちで消極的に追認したに過ぎない。それでも議員や経済界など様々なルートで、日中経済協力のパイプは細々ながら機能し、72年の電撃的な国交回復をスムーズに実現させることに一役買ったということはいえる。

一方中国の方は、共産党政権の樹立後しばらくの間は向ソ一辺倒で、日本に顔を向けることはなかったが、鳩山政権の頃からは、日本との関係を深めようという動きがないわけではなかった。毛沢東自身は、日本との関係強化を模索していたといえる。彼はそのために、日本を一面的に見るのではなく、戦争を指導した軍国主義グループとその犠牲になった一般国民とに区分し、中国は日本軍国主義の台頭には反対するが、一般の日本国民とは仲良くなれるといった。そして日本に過酷な戦争賠償責任を課すことは、一般の日本人に巨大な負担を強いることになるからといって、賠償請求の放棄をも匂わせた。

しかし、岸、佐藤と続いた自民党政権の対米協調一辺倒の姿勢を前に、中国は日本に余り多くは期待しなかった。

それが一転して劇的な日中国交回復に動いたのは、これもまた日本の自主的な外交の成果というより、アメリカの風に吹き流されてのことだった。

米中接近は1969年ごろから始まった。アメリカは中国と手を組むことによって、ソ連陣営を牽制したいと考えていたし、中国の方も60年代末に領土問題から高まった対ソ不信をもとに、アメリカと協力してソ連を牽制したいという思惑をもっていた。その共通の思惑が両者を結びつけ、71年のニクソンショックとして、米中和解を世界に向けて発信したわけである。

この動きが、日中関係にも影響を及ぼす。米中関係の変化を踏まえて日中関係も強化すべきだという世論も高まった。そうした動きを背景に、71年に成立した田中角栄内閣が、歴史的な日中和解に向けて、ルビコンを渡ったわけなのだ。

72年9月田中首相が大平外相を連れて中国を訪問し、わずか4日間の会談の成果を踏まえ、共同コミュニケを発表して、日中国交回復を宣言した。この宣言のなかで、日本は中華人民共和国を中国の唯一の政府として認めること(台湾を認めないこと)、中国は日本に対する戦争賠償を放棄する旨が盛り込まれた。

日中平和友好条約が正式に取り交わされるのは1978年8月のことであるが、日中関係の基本はこの共同宣言の中に盛り込まれており、これがその後の日中関係にとっての基本的な枠組みとなったのである。

日本は中国側からの賠償請求は免れたが、それを補完する形でさまざまな形で経済援助を行った。大規模なプラント建設に協力するほか、政府による無償援助や低利の円借款である。中国にとって、日本からの資金導入は、国の近代化と経済発展にとって著しいエンジンとなった。日本の方も、円借款の見返りに工事を受注するなど、中国への援助を通じて経済界が潤うという構図を享受できた。中国がいまでは公然というように、この経済協力は文字どおりお互い様だったのである。

とりわけ80年代には、鄧小平の改革開放路線に乗って、日本からの経済進出は大規模なものになった。深圳はじめ湾岸地帯の経済特区に進出した企業のうち、日本企業の占める割合も圧倒的に高かった。日本が中国の近代化に大きな役割を果たしたことは、中国側でも認めていることだ。東南アジア諸国への経済協力が、戦後処理の一環としての性格を帯びていたのに対して、対中経済進出はそうした枠を超えた、本格的な進出になった。

日中関係がとくに親密だったのは80年代前半のことである。中国側の新しい指導者となった華国鋒、趙紫陽は二人とも親日派だった。しかし80年代の後半になると、両国間にわだかまりが目立つようになった。中曽根首相による靖国参拝がその火種となった。中国側は、歴史認識を巡って譲れない一線を引いていて、中曽根がそれを踏み破ったと認識したのである。それでも中国側は、対日姿勢を硬化させることを控えた。実利を重んじたのである。その結果、華国鋒は対日弱腰を批判されて退場させられる羽目になった。

89年の天安事件を乗り切った鄧小平の中国は、90年代になるとすさまじい経済発展を見せた。国力の高まりにともない、中国にもいろいろな点で自信が出てきて、一般国民の力もついてきた。そうしたことが背景となって、日中関係にも構造的な変化が現れるようになった。

歴史認識問題、台湾問題、尖閣諸島や東シナ海の資源をめぐる両国間のぎくしゃくはその典型的なものである。日中間には様々な領域で問題が発生したが、それがこれまでと異なっているのは、広範な人民がこの問題の当事者として参加してきたことだ。それ以前の中国人民は政治の表舞台に登場することはなかった。彼らはあまりにも貧しかったし、共産党の指導者を批判するなどということはしなかった。日本に対する戦争賠償放棄も毛沢東と周恩来がほとんど独断でやったことであり、中国人民が意見を問われたことは一切なかった。その人民が、日中関係に対してものを言うようになり、それを政府も無視できなくなった。こうした事情が新しい日中関係に深い影を落としてくる。

2005年に中国の各都市で発生した反日暴動は日本人にもショックを与えた。イトーヨーカドーなどの日本資本の店が、熱狂した中国民衆によって破壊されるシーンの映像がテレビで流れると、多くの日本人は眉を顰め、中国に対して強い嫌悪感を表すようになった。この事件は、日中関係のたどり着いたもののうち、もっとも不気味で悪い側面を表しているといえる。

2005年の反日暴動以降、2010年には尖閣諸島での漁船衝突事件が起きて、日中関係は更に険悪な様相を呈した。今日でも、日中関係は正常さを取り戻したというまでには至っていない。

しかし、日本と中国は地理的にも歴史的にも深いかかわりのある隣人同士だ。お互いの誤解を解いて、健全な関係を築くことは両国にとって間違いなくプラスに働く。それ故お互いに冷静になって、相互理解に努めていく必要がある。一時的な対立に激情して、お互いを攻め合うのはもっとも下策と云うべきだ。これが著者の結論だ。


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このページは、が2012年4月17日 18:23に書いたブログ記事です。

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