万葉集を読む


万葉集巻十五はその前半部に、遣新羅使の一連の歌を合わせて145種も載せている。その数からして異例の扱いといえる。

草壁皇子が亡くなったとき、柿本人麻呂が荘厳な挽歌を作って皇太后(持統天皇)に奉ったことについては先に述べた。人麻呂はその後、持統天皇の宮廷歌人として、折節の行事のために儀礼的な歌を作るようになる。

高市黒人は柿本人麻呂のほぼ同時代人である。その生涯については、柿本人麻呂以上に詳しくはわかっていない。同族に高市県主がおり、壬申の乱に際して、飛鳥の地で神々の託宣を下したというから、神官の出であったと考えられる。県主はその功績により、天武から連の姓を授けられた。連は朝臣より下位の位であるから、高市連黒人は人麻呂より一層身分の低い官人だったと思われる。

志貴皇子は天智天皇の皇子であったために、壬申の乱以後は皇位継承から外れた傍系にあった。それでも、温和だったらしい人柄が天武、持統両天皇に評価されたのか、宮廷においては、異母兄弟の川嶋皇子とともに厚遇されたようである。

日本の古代王朝における皇位の継承には、近代に確立されたような直系長〔男〕子相続のような明確なルールがあったわけではなく、兄弟間の継承や時には女帝の誕生といったことが頻繁に起きた。

天武天皇(大海人皇子)は壬申の内乱を勝ち抜き、自力で王位を手中にした。持統女帝は天智天皇の娘であったが、叔父の大海人に嫁いでともに壬申の乱を戦い、夫の即位後は皇后としてともに政に当たった。しかして天武天皇が亡くなって後は、孫の文武天皇が成長するまでのつなぎ役として即位した。この夫婦が統治した時期は、日本の古代でも最も安定した時代だったといえる。

天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新をなしとげ、即位して後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが、万葉集に納められている歌から伺われるように、人間的な側面をも併せ持っていた。

万葉集巻一は、冒頭に雄略天皇に仮託された伝承歌を据えた後、二首目には時代を超えて舒明天皇の歌を置いている。しかして、舒明天皇の后斉明〔皇極〕天皇以後、各天皇の時代区分に従って、それぞれの時代を代表する歌を並べている。

大伴家持

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大伴家持は、万葉集の編集者として擬せられているとともに、自身も偉大な万葉歌人の一人であった。

万葉集巻十六に、「乞食者の詠二首」と題された珍しい作品が載せられている。まず、乞食者(ほかひひと=ほかいびと)とはどういう人をさすのかについて、古来議論があった。文字通りの乞食という意味ではなく、芸を売る見返りに食を得ていた、芸能民の類だろうというのが大方の説である。

大伴家持は、防人を筑紫に送り出すために難波津に滞在した一ヶ月ほどの間に、防人から提出された歌を編集して歌日記に書きとどめるとともに、自身も防人を歌った長歌三首を作った。家持は東国からやってきた防人たちの、飾らない歌いぶりに感動したのであろう。自身を防人の身に事寄せて、その気持をくみ上げようとする気持がよく出ている。

万葉集巻二十には、「天平勝宝七歳乙未二月、相替へて筑紫の諸国に遣はさるる防人等が歌」と題して、防人の歌がずらりと並んで載せられている。その数は八十数首、大伴家持はそれらの歌の間に、自作の歌をもちりばめて配している。

万葉集巻十四には、東歌として、東国各地の歌が集められている。これらの歌がどのようにして集められ、万葉集に収められるに至ったか、そのいきさつは明らかでないが、恐らく中央から派遣された国司たちによって、集められたのであろう。常陸風土記など、風土記の編纂がそのきっかけになったのかもしれない。

万葉の時代に東国に伝わっていた民間伝承は、京の人々にとっては遠い僻地での物珍しい出来事ではあったろうが、その中には人々の関心を引いたものもあったようだ。葛飾の真間の手古奈の伝説などは、その最たるものだったようで、山部赤人、高橋蟲麻呂の二人によって、歌にも読まれた。

先に大伴家持に関して諸国の遊行女を取り上げた文の中で、重婚を禁じた例規があったことを紹介した。万葉の時代の後半は、どうも一夫一妻の制が建前であったらしいのである。天智、天武の両天皇は後宮を設けて多くの妃を蓄えていたのであるから、その頃までは臣下の間でも一夫多妻が行われていたはずだ。だから、これは大きな政策転換であったといえる。

万葉の時代の女性たちが、現代人の我々が考えている以上に自由な生活を送っていたであろうことは、彼女らがかなり奔放な恋愛を楽しんでいたことからも察せられる。筆者は先に、坂上郎女や額田王のそのような恋を取り上げてきた。だが、奔放な恋を生きた女性としては、石川郎女を以て万葉の女性チャンピオンとせねばなるまい。

大伴坂上郎女は、額田王と並んで万葉の女流歌人を代表する人である。家持にとっては叔母にあたり、作家の上でも大きな影響を与えたと思われる。その作品は、家持の手によって筆写され、万葉集の中に多く残された。

大伴家持は、正妻の坂上大嬢や若い頃に死んだ妾の他にも、多くの女性と恋の駆け引きを演じた。家持は自ら女好きの男であったとともに、女性からも好かれるタイプだったらしい。そんな家持が、何人かの女性との間に交わした相聞歌が万葉集に載せられている。家持の愛した女性たちには、優れた歌い手が連なっていたのである。

聖武天皇が譲位して上皇となり、孝謙天皇の世に変わると、藤原武智麻呂の子仲麻呂が女帝に接近して権力を握り、政敵の追い落としをするようになる。最大の標的は橘諸兄だった。政治的に諸兄に近かった大伴家持は、世の中の変化に敏感にならざるを得なくなった。

大伴家持の生きた時代は、人麻呂の時代とは異なって、常に内乱の危機をはらんだ政治的動揺の時代であった。737年に流行した大疫によって、藤原武智麻呂はじめ、藤原氏の実力者が次々と死に、政治的な空白ができたのがその原因である。藤原氏にとってかわって、橘諸兄が一時的に権力を握ったが、安定したものとはいいがたかった。740年には、藤原博継による大規模な内乱がおきている。

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