万葉の世紀(万葉集と大伴家持)
若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。
若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。
柿本人麻呂は、いうまでもなく万葉の時代を代表する歌人であり、日本の文学史を画する偉大な詩人である。人麻呂によって、歌の様式としての長歌が完成したことはさておき、人麻呂は、相聞的叙景歌というものに磨きをかけることによって、和歌というものの表現の可能性を最大限に引き出した。このことによって、和歌は我が国の言葉の芸術の、核ともなり心ともなった。
万葉集巻二「挽歌」の部には、柿本人麻呂の挽歌数編が収められている。そのうち、皇族の死を悼んで作られたものが四篇あるが、それらは、宮廷歌人としての人麻呂が、宮廷儀礼のために、命じられて作ったものと思われる。人麻呂のほかの挽歌に比べると、格調が高く、荘重な雰囲気に満ちている。
万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。
万葉集巻二にある柿本人麻呂の「泣血哀慟の歌二首」は、かつては同じ人の死を悼んだ歌とされていた。しかし、よく読むと、そこには根本的な違いがある。一首目はロマンに満ちた歌であるのに対して、二首目はかなり現実的な調子なのである。しかも、一首目の妻は通い妻であったのに対し、二首目の妻とは同居していた。
万葉集巻三雑歌の部に、柿本人麻呂の覊旅の歌八首が並べて掲げられている。人麻呂が難波から西に向かう旅の途中に歌ったものもあり、逆に西から京へ帰る途中のものもある。いづれも瀬戸内海をゆく船旅の途上詠まれたものと思われる。
柿本人麻呂は、晩年、石見の国の国司として赴任し、そこで土地の女性と結ばれた。女性の名を依羅娘子という。人麻呂が、後に死に臨んで辞世の歌を詠んだのはこの女性に向けてであり、女性もまた、人麻呂の死後に、その死を悼む歌を残している。
万葉集には、柿本人麻呂作と明記されたもの、長歌十九首、短歌七十五首のほか、柿本人麻呂歌集から採られたものが、三百六十首ばかりある。人麻呂歌集中の作品は、人麻呂が自らの作家ノートとして作っていたもののなかから、万葉集の編者が取り上げたのだと考えられている。
柿本人麻呂の死については、わからぬことが多い。もっともおだやかな見方としては、任地の石見において、下級官僚のまま死んだのではないかとする斉藤茂吉の説がある。茂吉は、考証を進めた結果、続日本紀にある記録を元に、慶雲四年(707)、石見の国をおそった疫病の犠牲になったのではないかと推論した。人麻呂四十代半ばのことである。
額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在である。ただに女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。相聞歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また、当時はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌にも叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれる。北山茂夫は、彼女を評して、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、人麻呂、赤人へとつながる流れを用意したともいっている。
山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。
山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。
山部赤人には、富士の高嶺を詠んだ歌がある。特に短歌のほうは、赤人の代表作の一つとして、今でも口ずさまれている。おおらかで、のびのびとした詠い方が、人びとを魅了する。万葉集の歌の中でも、もっとも優れたものの一つだろう。
山部赤人は、儀礼歌を中心にして多くの長歌を書いた。それらの歌は、人麻呂の儀礼的長歌と比べると、荘重さというよりは、叙景の中に人間的な感情を詠みこんだものが多かった。そして、この叙景という点では、赤人の本領は短歌において、いっそう良く発揮された。赤人は、人麻呂の時代と家持の時代を橋渡しする過渡期の歌人として、短歌を豊かな表現手段に高めた人だったといえる。
山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。
万葉集巻三に、山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌がある。手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。赤人は、鄙の地にかかる悲しい話が伝わっているのに接して、哀れみの情を覚え、歌にしたものと思える。
笠金村は、山部赤人とほぼ同時代か、あるいはやや先立つ世代の宮廷歌人である。赤人と同じように、柿本人麻呂に続く宮廷歌人として、元正、聖武両天皇の時代に儀礼的な歌を作った。その歌には、人麻呂に見られたような神話的な悠久さは薄まりつつあったが、それでもなお、天武持統両天皇の時代に確立した、古代王朝の泰平の響きがこだまのように反映してもいる。
笠金村に、遣唐使に贈った歌がある。天平五年(733)年の作である。隋が滅びて唐になって以来、中国への朝貢の使節は遣唐使と名を変え、舒明天皇の二年(630)を第一回目として、天平五年には第十回目の遣唐使が派遣された。船団は竜骨をもちいない粗末な箱船四隻からなり、難波津から出発して瀬戸内海を進み、博多の津から玄界灘へと消えていった。
山上億良は、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた。億良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった。
万葉集の歌の世界には、人麻呂、赤人を筆頭にして、男女の愛を歌った相聞の歌が数限りもなくある。だが山上憶良は、他者のための挽歌は別にして、男女の愛を歌うことはなかった。そのかわりに億良は、子どもを思う歌を作ったのである。
山上億良が筑前国守として赴任して一年余り後、大伴旅人が大宰府の師(長官)として着任してきた。億良にとっては上官の立場である。旅人は億良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、また教養も深いものがあった。その旅人と億良とは、やがて心から敬愛しあう関係になる。
山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた億良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいている。
万葉集巻五に、山上億良の一風変わった歌が載せられている。「惑へる情を反さしむる歌」という。序にあるように、父母を敬はずして侍養を忘れ、妻子を顧みず、山沢に亡命する民を論難した歌である。
万葉集巻五に、「筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌」という、これも一風変わった歌が載せられている。序にあるとおり、相撲使という官人に従者として従い、京都に向かう途中死んだ若者がいた。その若者の志を哀れに感じた億良が、彼に替って、その志を述べたという歌である。
山上億良の最晩年、おそらく死の前年と思われる天平五年(733)、遣唐使が難波の津から唐に向かって出発した。遣唐大使は多治比広成、皇親系に属する高官であった。その多治比広成が、出発を一月ほど先に控えたある日、億良の屋敷をわざわざ訪ねてきた。かつて遣唐使の一員として唐に渡り、また、学識の深さでも聞こえていた億良から、有益な情報を得ようとしたのだろう。
万葉集巻五の最後に「男子名は古日を恋ふる歌」が載せられている。その詞書に「右の一首は作者詳らかならず、但し、裁歌の体、山上の操に似たる」とあるを以て、作者について色々の詮索もなされた。今日では、これは山上億良の歌であるというのが定説となっている。筆者もそう考え、ここではそれを前提にして、話を進めていきたい。
万葉集巻五に、山上億良の作「沈痾自哀の文」なるものが載せられている。題名の如く老病を嘆き、自らを哀れむ思いを、漢文調の文章でつづったものである。作中七十有四とあるから、死の直前に書かれたものであろう。億良の人生の総決算ともいえるものだ。
万葉歌人のなかでも、山上億良ほど生に執着し、命の尊さにこだわったものはない。その思いは、時に路傍に横死したものへの同情となって現れ、時に貧窮問答歌における人へのいたわりとなって現れ、また子を思う切実な思いと名って迸り出た。それらの歌には、人間というものへの、限りない慈しみの感情が表現されている。
柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。その生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。
山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より人世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。
山上億良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。
山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。
大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。
酒を讃むる歌で、洒脱さを遺憾なく発揮した大伴旅人は、万葉の歌人たちの中でも、どことなく浮世離れした、独特の感性を歌い上げ、この国の詩歌の歴史に清新な風を吹き込んだ。その感性は、世の中とそこに生きる己を、遠くから距離を置いて、突き放すように見ているところがある。旅人以前の日本人たちには決して見られなかったものだ。
万葉集巻五に、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」が、漢文風の序とともに一括して収められている。天平二年正月、大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開いた。その時に、出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みあった。この風雅を愛する大官を囲んで、宴が自然と歌会に発展したのかもしれない。
万葉集巻五に、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」が、漢文風の序とともに一括して収められている。天平二年正月、大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開いた。その時に、出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みあった。この風雅を愛する大官を囲んで、宴が自然と歌会に発展したのかもしれない。
大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。
大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。
大伴旅人が死んだ時、子の家持はまだ14歳に過ぎなかった。家持は妾腹の子ではあったが、聡明だったのであろう、旅人は家持が小さい頃から後継者と定め、大宰府にも伴って行って、自ら教育に当たった。旅人が死んだことで、家持は最大の後ろ盾を失うこととなったが、大伴家の当主として、それなりの自由を享受するようにもなった。
大伴家持は、天平18年(746)越中国守に任命された。時に29歳である。家持はすでに宮内少輔という地位に昇進していたが、越中の国は当時としては大国であり、そこの国守になることは決して左遷ではなかったろう。だが、若い家持にとっては、天ざかる鄙へ行くことは不本意なことであったようだ。彼は妻を伴わず、単身赴任している。