裁判員たちの百日裁判:木嶋事件のケース

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裁判員制度が始まってから3年、この間に裁判員をつとめた人の数は2万6000人にのぼるという。先日(4月13日)には、100日にもわたる長期の裁判の結果、被告に死刑を言い渡した裁判もあった。この裁判は、決定的な証拠がなく、状況証拠の積み重ねだけで被告の有罪を認定するという、非常に困難を強いられた裁判だとの指摘もあり、裁判員の関与も含めて、日本の刑事裁判のあり方に対して、国民に一定の課題を突き付けたといえる。

問題の裁判は、男性3人を連続殺害したとされる木嶋香苗被告をめぐるものだ。100日もかかったのは、証人の数が60人、提出された証拠は360件、そして被告が一貫して無罪を主張するなど、争点が多い裁判だったからだ。しかも提出された証拠はいずれも状況証拠で、証人の証言も直接犯行に結びつくものではない、というので、裁判員は判断に戸惑ったという。

それでも裁判員たちが、検察の主張を採用したのはなぜか。状況証拠でも、事実の認定に強いインパクトがあることについて、検察官が裁判員に対して説得できたからということらしい。

検察官は、「前夜は星空だったのに、朝は一面の雪化粧。雪が降る場面を見ていなくても、夜中に降ったのはあきらかです」 こういって、死んだ三人が最後に会ったのが木嶋被告であるのは間違いないのだから、そして彼ら三人には自殺する動機がなかったのだから、彼らが他人によって殺害されたのであり、その殺害者が木嶋被告だと推認することには、十分の道理がある。そういう理屈を展開したわけだ。

しかし昨日(4月15日)のNHKの検証番組(木嶋被告 100日裁判)などを見る限りでは、検察の論理組み立てが磐石だとは到底思えない。検察は状況証拠を積み重ねて、(事実だと)推認できる、(事実だとしても)不思議ではない、(それが事実であることは)常識から考えて間違いない、といった主張を繰り返すばかりだ。

状況証拠から判断できるのはあくまでもグレーゾーンのことだ。グレーと黒とは連続しているようで、そうではない。グレーはグレー、黒は黒と考えるのは、普通の感覚だろう。しかし、検察の言い分は、グレーが限りなくクロに近く見えるのだから、それは黒と考えてもよいというものだ。つまり状況証拠だけでも、人を有罪とし、死刑に処することも理にかなっているという立場だ。

先ほどのNHK検証番組では、他のケースの裁判員をつとめた人々が、裁判の評定のプロセスを追体験していた。そのなかで、検察の主張は妥当だとする意見がある一方、状況証拠だけでは、それがいくら積み上げられても、有罪と判断するのは辛いという意見もあった。

彼らの行うプロセスを見ていた映画監督の周防正行さんは、今回について言えば、検察の論理組み立ては、評価できないといった。判決文は論理が穴だらけで、筋道がしっかり通っておらず、けっこう乱暴な書き方になっているとの評価をしていた。

番組は、木嶋被告が関わったとされる、埼玉県の駐車場における男性死亡事件と、千葉県での火災に伴う男性の死亡事件を取り上げて、検察側の主張について踏み込んだ検証をしていた。検察はこの両者には、練炭による殺害という共通点があると主張していたが、千葉のケースで練炭が使われていたという直接証拠は示されなかった。また、埼玉の事故は、男性の自殺によるものとする木嶋被告の主張に反駁して、男性の手には練炭をいじった形跡がなかったと主張したが、それを裏付ける物的な証拠は示さなかった。

つまり検察は、論理の筋道だてに失敗しているばかりか、証拠の評価にもずさんなところが目立つ。これでは、判断を求められた裁判員が途方に暮れるのも無理はないという意見だ。

筆者も同感である。刑事裁判には常に冤罪の可能性が付きまとうわけだから、冤罪を防ぐという意味でも、裁判は正しく行われねばならない。正しい裁判とは、誰に目にも疑いのない判決を出すことだ。誰の目にも疑いのない判断とは、明確な事実に基づいてなされる判断だ。推認や憶測では、疑いのない判断はできない。

まして今回のように、有罪という評定がそのまま死刑につながるようなケースでは、なおさら冤罪の可能性に配慮をいたさねばならない。

法は正義の実現を目指しているのだから、犯罪は厳しく罰せられねばならないのは明らかだが、だからといって、疑わしい部分を抱えながら、被疑者を死刑にするのはいかがなものか。

番組の中で、状況証拠ばかりで、決定的な証拠がない場合に、それは被疑者の有罪を立証できるだけの能力が検察にないことを理由に、無罪とする判断はありえないのか、という趣旨のことを発言した人がいた。

これに対して、リーダー役の法律家は、そういう考え方もないわけではない、といっていたが、日本の刑事裁判の伝統は、どちらかというと、自白や状況証拠を基に有罪と判決してきたというニュアンスの反応をしていた。

アメリカなどでは、検察が物証をもとに明確に立証できない場合には、被告を有罪とすることはできない、との考え方が有力だときいている。状況証拠からは限りなくクロに近いのに、検察が決定的な物証を示すことができなかった結果、無罪になった例は沢山ある。そういう場合には、検察が悪者になって、人々が彼らの無能を糾弾することで、もやもやした気分のガス抜きをはかる、ということらしいが、これもまたひとつの割り切り方かもしれない。





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このページは、が2012年4月16日 19:02に書いたブログ記事です。

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