日本文学覚書


近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。

子規と漱石

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漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。

「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)

子規の病

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正岡子規が明治22年5月、まだ21歳という若さで大喀血に見舞われ、それを契機にして病気と闘う運命に陥ったことについては、前稿で述べた。またこの病気つまり肺結核が、己自身に子規と名付けさせるきっかけになったことも、前稿で述べたとおりである。

正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。

「俳人蕪村」は子規が蕪村の俳句を取り上げ、その句風を詳細に分析したものである。蕪村の俳句史における位置づけは、子規のこの著作によってゆるぎないものになったといえるほど、蕪村研究の上で画期的な業績であった。

子規と俳句

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正岡子規は生涯に数万の俳句を詠んだ。彼はその中から保存するに耐えると思うものを選び出し、分類した上で手帳に清書して書き溜めた。その数は2万句近くに上る。手帳の1冊目から5冊目までは「寒山落木」と題し、6冊目と7冊目には「俳句稿」と題した。今日子規全集に納められているのは、これらの句が中心になっている。岩波文庫から出ている高浜虚子編「子規句集」もそれから抜粋したものである。

正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。

正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。

正岡子規は日本の近代文学において、俳句と和歌を刷新した人物である。これらの伝統文学は徳川時代末期にはマンネリズムに陥り、清新な気を失っていたのであるが、子規はそれを甦らせるとともに、新しい時代の文学形式としての可能性をも拡大した。彼の業績は弟子たちを通じて、今日の短詩型文学を根底において規定し続けている。

永井荷風の小文に「柳北仙史の柳橋新誌につきて」と題する一篇がある。成島柳北「柳橋新誌」成立前後の事情を紹介した文章である。特に初篇に焦点を当てて、それが柳北自身の遊興体験からもたらされたものであることを解明している。

今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか、いくつかの全集ものにも入っているから、比較的手に入りやすいが、それ以外には、昭和44年に刊行された明治文学全集所収のものが最後で、図書館に行かなければ目にすることができない。

成島柳北の奇文「辟易賦」は明治8年8月17日の朝野新聞に掲載された。この年の6月に讒謗律と新聞紙条例が施行され、政府はさっそくそれを適用して、末広鉄腸らの新聞人を弾圧し始めたので、成島柳北はこの文を作って、政府を痛烈に批判したのである。

成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。この監獄は前年の12月にできたばかりで、西洋風の作りであった。そこでの四ヶ月間の監獄生活を、柳北は出獄間もない6月14日から24日にかけて、朝野新聞紙上で紹介した。「ごく内ばなし」がそれである。ごく内緒の話という意味だろうか。植木枝盛の「出獄追記」と並んで、明治初年の監獄の様子が伺われる貴重な証言である。

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。その遊びの中から「京猫一斑」(鴨東新誌)が生まれている。そして翌明治7年9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。

横浜港を出航して1ヶ月半の船旅をした成島柳北らの一行は、明治5年(1972)10月28日にマルセーユに上陸し、11月1日未明にパリに入った。その時の感動を、柳北は次の漢詩に表現している。

  十載夢飛巴里城  十載夢は飛ぶ巴里城
  城中今日試閑行  城中今日閑行を試む
  画楼涵影淪漪水  画楼影を涵す淪漪の水
  士女如花簇晩晴  士女花の如く晩晴に簇がる

慶応四年徳川幕府が瓦解するのと命運をともにした成島柳北は、会計副総裁の職を辞し、向島の須崎村に隠居して自らを無用の人と称した。そのときの心境を柳北は「墨上隠士伝」の中で次のように記している。

漱石は二年余りに及ぶイギリス滞在中、ついにイギリス人とその社会に溶け込むことができなかった。あまつさえその後半の一年ほどは、ひどいノイローゼも作用して、下宿に閉じこもって日本人との交際もしなくなった。このため漱石はついに狂ったのだという風評が立ち、それが本国にも聞こえて、学業半ばにして、帰国を命じられるのである。

夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。

森鴎外がドイツ留学から帰国したのは明治21年9月8日である。ところがそれから幾許もたたぬ9月12日に、ドイツ人の女性が鴎外の後を追って日本にやってきて、築地の精養軒に泊まっているという知らせが鴎外を驚愕せしめた。この女性が果たして何者かについて、鴎外自身は殆ど語る所がないが、これこそ彼の初期の傑作「舞姫」のモデルになった女性ではないかとの憶測が、文学史上かまびすしく語られてきた。

森鴎外は明治15年2月に起稿した「北遊日乗」に始まり死の年(大正7年11月)まで書き続けた「委蛇録」に至るまで、生涯の大半について日記をつけていた。そのうちドイツ留学中及びその前後に書いたものが四種ある。ドイツへと向かう船旅の様子を記録した「航西日乗」、ドイツ留学中の生活を記録した「独逸日記」、ドイツでの生活のうちベルリンでの最後の日々を記録した「隊務日記」、そして日本へ帰る船旅を記録した「還東日乗」である。

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