成島柳北の西洋旅行記:航西日乗

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慶応四年徳川幕府が瓦解するのと命運をともにした成島柳北は、会計副総裁の職を辞し、向島の須崎村に隠居して自らを無用の人と称した。そのときの心境を柳北は「墨上隠士伝」の中で次のように記している。

「われ歴世鴻恩を受けし主君に、骸骨を乞ひ、病懶の極、真に天地無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」

だがこんな柳北に、有用の人となる転機が訪れた。明治4年1月、東本願寺の法主現如上人が文明開化の流れに沿って教学の発展を図ろうと、浅草別院内に学塾を開設し、柳北をその学長として迎え入れたのである。更に現如上人は、明治5年から6年にかけて、ヨーロッパへの視察旅行を企て、その一行に柳北を加えた。柳北は時に36歳であった。

成島柳北の「航西日乗」は、このヨーロッパ旅行の折に、漢文でしたためた日記を、読み下し文の形に整え、明治14年から同17年にかけて、雑誌「花月新誌」に発表したものである。

横浜を出発してフランスに上陸し、そこでの数ヶ月の滞在の後、イギリスを経由してアメリカにわたる大旅行であったが、日記はイギリスの部分で終わっており、本来存在したとみられるアメリカでの部分は、散逸して現存していない。

明治初年には多くの日本人が、視察や修学のために欧米にわたり、その結果を膨大な日記に残しているが、それらと比較して、柳北のこの日記は、読み物として断然面白い。面白さという点では、岩倉使節団に随行した久米邦武の「米欧回覧日記」なども上げられるが、柳北の日記は文学的な香りが豊かなことで、群を抜いている。それは、柳北が優れた文学者であったとともに、異国の風土や人間に対して飽くことのない好奇心を抱き、何事にも果敢に挑戦するという、類まれな資質を持っていたことに根ざしている。

さて柳北は、この旅行に随行するに至った経緯を次のように記している。

「本願寺東派の法嗣現如上人将に印度に航し転じて欧州に赴き彼の教会を巡覧せばやと思ひ立たれ、余に同行せよと語られしは壬申の八月中旬にてありき、余の喜び知るべきなり」

上人の一行は柳北を含めて5人であった。上人は柳北が会計副総裁として巨額の金を管理する能力を有し、また外国奉行として多くの外国人と交渉した経験を買って、柳北を随行者に選んだのだと思われる。

一行は9月14日にフランスの郵船ゴダバリ号に乗って、横浜港を出航した。この船には、後に柳北を弾圧する側にまわる井上毅や大警視になる川路利秋ら明治新政府の少壮官吏の視察団も乗り込んでいた。

船が外洋に出ると、柳北は早速激しい船酔いに見舞われたらしいが、落ち込んではいない。船の揺れを次のように茶化して、同船の外国人とも会話を楽しんでいる。

  何者半宵掀我床  何者か半宵我が床を掀(もちあぐ)る
  乍天乍地奈飄颺  乍(たちま)ち天乍ち地飄颺するを奈(いかん)せん

この詩を始め、日記には七言絶句を中心に70数編の漢詩が載せられている。いずれも味読に耐えるもので、柳北の才能が躍如としている。次の一篇は、自分の船旅をノアの箱舟に喩えたものである。
 
  亜刺羅山在那辺  亜刺羅(アララット)山は那辺にか在る
  風涛淼漫碧涵天  風涛淼漫し碧天を涵(ひた)す
  艙間併載牛羊豚  艙間併せ載す牛羊豚 
  彷彿千秋諾亜船  彷彿たり千秋諾亜(ノア)の船

9月20日に船が香港に入港すると、柳北は小船に乗って上陸し、早速香港の町を散策する。山上の公園に遊び、ヨーロッパホテルに一酌し、更に街上の酒店に投ずといった具合だ。だが香港は盗賊が多いと聞いて、町に宿泊することは避け、船に戻って寝ている。

香港で別船メーコン号に乗り換えた一行は、次にサイゴンに立ち寄る。

「二十五日十一時遥に灯台及び人家を認む、乃ち知る塞昆港に近きを、亭午港口に入る、両岸緑樹幽草風景画に如し、処々に蘇鉄の大樹有り、又猿侯の群を為して遊ぶを見る、人家有る所は秧針青々として本邦四五月の候に似たり、大河なれど流れは緩く水は濁れり、屈曲して上流に泝る、舟人に問ふ、一は曰く是れ蘭倉江なりと、一は曰く是れ東浦寨川の下流なりと、余地理に昧し、他日詳に地図を按ずべし、四時塞昆に達す、是れ安南の都邑にして近年仏国の所領となれり、人種は支那に類す、男女其歯皆黒し、椰子を食ふに因るか、屋舎の甍瓦皆赤色なり、始て椰樹林見る、此日寒暑針九十四度、本港は赤道を隔たる僅に十度十七分なりといふ、夜舟中に眠るに両岸の虫声啾々として耳に盈ち流蛍乱飛するを見る、其の形頗る大なり、蚊蟎亦多し」

これは柳北が始めて接した東南アジアの風景を描写したものである。柳北は其の美しさを風景画の如しと表現している。後に森鴎外もまた、この同じ地に立ち寄るが、やはり柳北と同じく其の美しさを風景画の如しと表現した。

柳北も鴎外も、風景を叙述し、其の感動を表現するのに漢文を用いた。漢文の持つきびきびした文の運びが、快いリズム感を生み出し、独特の世界を作り出している。現代人の我々は、漢文を書くことはもとより、読むことができる者も少なくなってしまった。しかし、文学の世界では、漢文的な表現になじむ部分が多い。その部分まで漢語表現を捨て去ってしまったことは、惜しむべきことといえる。

シンガポールでも、柳北は馬車を雇って市街を散策している。しかしここも夜は不便だと悟って、舟に帰って寝ている。翌日港に赴くと、現地人たちが埠頭に集まって、オウムや長尾サルを船客に売りつけている光景を見る。そこで柳北がものした一篇の漢詩は、この日記の中でもっとも愉快なものである。

  幾個蛮奴聚港頭  幾個の蛮奴港頭に聚る
  排陳土産語啾々  土産を排陳して語啾々
  巻毛黒面脚皆赤  巻毛黒面脚皆赤し
  笑殺売猴人似猴  笑殺す猴を売る人猴に似たるを

セイロン島では、柳北の一行は山路に馬車を走らせて寺院を見物する。寺院の壁面には地獄の図柄が描かれていたが、その奇怪なことは日本人の地獄のイメージとはだいぶ異なっていると、妙なところに感心している。

また別な寺院では、日本語を解するという老僧と出会うが、「試みに邦語を以てこれに問へば豪も通ぜず」と記して、次の五絶を作っている。

  三千年古刹  三千年の古刹 
  一万巻遺経  一万巻の遺経
  試問往時事  試みに往時の事を問へば
  山風吹月青  山風月を吹いて青し

この後、船はインド洋を航海して、アデンに至り、できたばかりのスエズ運河を通って地中海へと向かう。そして10月28日目的の地マルセーユの港に到着する。


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