文学のカーニバル化と内的対話性:バフチンの「ドン・キホーテ」論

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本田誠二氏は、今日では日本のセルバンテス研究の第一人者ということらしいが、彼の書いた「セルバンテスの芸術」という本は、正直言って読みづらかった。論旨展開がトリヴィアリズムに走っていて、なんだか枝葉末節の事柄を聞かせられているような感じをうけるし、文章の運びにもなんとなくリズムが感じられない。

だが感心させられたところもある。さすがに、セルバンテス研究の専門家だけあって、目配せが行き届いていることだ。そんな目配せの中でも、バフチンの「ドン・キホーテ」論を紹介した部分などは、なかなか示唆に富んでいる。

日頃から「ドン・キホーテ」をルネサンスの産んだ偉大な文学だと思っていた筆者などは、バフチンのドン・キホーテ解釈が気になるところだったのであるが、バフチン本人には、ドン・キホーテを体系的に論じたものがないようなので、かねてから痛痒のようなものを感じていたところ、本田氏はバフチンのドン・キホーテ解釈の特徴のようなものを、バフチンの著作のあちこちから集めてきたドン・キホーテに関する文章をもとに、手際よく紹介してくれたのだ。そこから浮かび上がってくるのは、バフチンがドン・キホーテをカーニバルの文学としてとらえていたということだ。

バフチンは、「フランソア・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化」において、ガルガンチュアやパンタグリュエルの作品世界の本質をカーニバル化に求めた。カーニバル化とは、あらゆる秩序をひっくり返し、世界をいったん混沌のなかに放り込んだあと、そこから新しい生命を誕生させる儀式的なプロセスを表した言葉であって、中世からルネサンスにかけての民衆文化の中に息づいていた精神である。

バフチンは、そのカーニバルの精神が「ドン・キホーテ」の中にも認められると考えたと、本田氏はいうのである。氏はバフチン自身の次のような文章を引用して、ドン・キホーテとカーニバルについての、バフチンの解釈を紹介する。

「<ドン・キホーテ>にはルネサンスのカーニバル的な世界感覚が生きていて、パロディが背反的に二重的で、死と新生とのつながりを維持していた。それゆえパロディの懐から世界文学の中で最も偉大で同時にカーニバル的な小説のひとつ、<ドン・キホーテ>が生まれることができた」(ドストエフスキー論)

その上で氏は、「たしかに、<ドン・キホーテ>の言語空間には、カーニバルに特有の、人と人とのあいだの距離がすべて除かれた、自由であけすけな人間関係、そしてちぐはぐな組み合わせ、あべこべの世界が、対話と言うかたちで表現されている」という。

その対話に関するバフチンの論考は、「ドストエフスキー論」において展開されている。そこでバフチンは、ドストエフスキーの小説世界を内的対話性に富んだポリフォニーと定義づけたわけであるが、その定義が「ドン・キホーテ」にも当てはまると考えた。バフチンによれば、「ドン・キホーテ」は「矛盾をはらみ、内的に対話化された小説の言葉のあらゆる芸術的可能性を極めて深く、また広範に実現した」(小説の言葉第3章:伊東一郎訳)ということになる。

「ドストエフスキー論」にせよ「小説の言葉」にせよ、「ドン・キホーテ」が正面から論じられているわけではないので、言及は断片的なものに留まってはいるが、「ドン・キホーテ」の卓越性を、「文学のカーニバル化とか内的対話性という独自の視点から指摘しえたのは、バフチンが初めてである」といえよう。

今日の「ドン・キホーテ」論の主流が、「ドン・キホーテ」を近代小説の先駆けとしてとらえ、もっぱら近代文学とのかかわりにおいて評価していることを考えれば、この小説をカーニバル的世界感覚のなかでとらえ直したバフチンは、筆者などには非常に刺激的に映る。

しかし、先ほども触れたように、バフチンには「ドン・キホーテ」を正面から、体系的に論じたものがないので、カーニバル化やポリフォニーと言ったキーワードをもとに、バフチンが随所で「ドン・キホーテ」に言及している断片的な言葉を組み合わせ、彼のイメージしていたにちがいない「カーニバル文学としてのドン・キホーテ」の世界を、浮かび上がらせていくほかはない。





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このページは、が2012年8月 2日 18:23に書いたブログ記事です。

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