元祐八年(1093)、蘇軾は大事な女性を二人、相次いで失った。妻が8月1日に、そして太皇太后が9月3日に死んだのだ。妻の死に際して、蘇軾は祭文を作成して、妻がいかに心の広い、寛大な女性であったかを回想した。
一方、太皇太后の死は、その後の蘇軾の運命に暗い影を投げかけるものだった。太皇太后は、蘇軾ら旧法党の後ろだてとなっていただけに、その死は、蘇軾だけでなく元祐党と称された旧法党全体の没落を予感させたからである。
というのも、皇帝の哲宗が蘇軾ら旧法党のことを快く思っていないからだった。そこに章敦ら新法党の残党が付け込み、哲宗をそそのかして、旧法党の弾圧にとりかかるのだ。
新法党による旧法党の弾圧は、章敦が宰相の地位に就いた翌招聖元年(1094)4月以降に本格化する。蘇軾はそれ以前、元祐8年の9月に定州知事に任命されていた。これは同年4月に内示されていたことだったが、太皇太后が死んだ今、格別な色合いを帯びるようになっていた。
蘇軾は、自分と旧法党の仲間たちに、どんな運命が待ち受けているか、定州に向けて出発するに当たり、どれほど理解していたか。
ともあれ蘇軾は、出発に際して、蘇轍に一片の詩を贈っている。
東府雨中子由と別る
庭下梧桐樹 庭下 梧桐の樹
三年三見汝 三年 三たび汝を見る
前年適汝陰 前年 汝陰に適(ゆ)き
見汝鳴秋雨 汝の秋雨に鳴るを見る
去年秋雨時 去年 秋雨ノ時
我自廣陵歸 我廣陵より歸る
今年中山去 今年 中山に去る
白首歸無期 白首 歸るに期無し
庭の桐の木よ、この三年の間に三度お前を見たことよ、一昨年汝陰(頴州)に赴く時お前は秋雨の中で音をたてていた、昨年秋雨が降る時、私は廣陵(揚州)から戻ってきた、そして今年は中山(定州)に去る、この白髪頭が再び戻ってこれるかわからないままに
客去莫歎息 客去るも 歎息する莫かれ
主人亦是客 主人 亦是れ客なり
對床定悠悠 對床 定めて悠悠
夜雨空蕭瑟 夜雨 空しく蕭瑟
起折梧桐枝 起って梧桐の枝を折り
贈汝千里行 汝が千里の行に贈らん
歸來知健否 歸り來って知る健なりや否や
莫忘此時情 忘るる莫かれ此の時の情
客が去っても嘆くには及ばない、主人もまた客に過ぎないのだから、床をならべて寝ることももうかなうまい、夜雨がさみしげに降るばかりだ
起き上がって桐の枝を切り、君へのはなむけにしよう、無事に戻ってこれるかどうかわからない、いまのこの気持ちを忘れないでいて欲しい
後半の八句は、蘇軾と蘇轍の対話の形式をとっている。前段四句が蘇軾、後段四句が蘇轍の言葉だ
コメントする