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大内宿を歩く



今年の七月に筆者が定年退職するのを記念して、職場の連中が送別旅行を催してくれた。マイクロバスのレンタカーを借り、一泊二日で会津方面へ行こうというのである。計画を煮詰めるに当って、幹事役が筆者に、寄りたいところがあればいえという。そこで筆者は迷うことなく、大内宿を歩いてみたいと答えた。

大内宿は歴史的な建物が集落単位で残っている貴重な場所で、近年観光スポットとして大いに注目を集めている。そのため観光渋滞が激しく、春夏のシーズンには近づくこともままならないほどだ。筆者も一昨年の秋、親しい友人らと会津を旅した際立ち寄ろうとしたが、4キロほども手前から車が大渋滞し、とても近づける状態ではなかった。

でも今は梅雨時でもあり、観光客の数もそう多くはなかろうから、もしかしてたどりつけるかもしれない。そう思って大内宿の名を上げたのだった。

同行者は筆者を含めて十人。早朝東京を出発して、高速道路を西那須野インターで下りて会津街道を北上し、途中阿賀川上流の渓谷を訪ねたりして、午後大内宿に到着した。幸い道路は渋滞しておらず、すんなりと集落手前の駐車場に車をとめることが出来た。

宿場町は山懐に抱かれるようにしてたたずんでいた。かつて会津西街道と呼ばれた道の両脇に、藁葺きの家が整然と立ち並んでいる。藁葺きの家は今では殆ど目にすることができないのに、ここではそれが集落ごとごっそりと残されているのだ。道の長さは300メートルほどだが、建物の密度が高いために、ちょっとした迫力がある。道の外れは山に突き当たっていて、その山の上からは、集落全体を一望に収めることが出来る。

我々はこの道を、左右に立ち並んだ藁葺き屋根の家を一軒づつ覗き込みながら、のんびりと歩いた。道の両側には上水用の水路が引かれ、その奥にやや間を空けて家が立ち並んでいる。屋根の形は寄棟式で、みな道に面して藁の重厚な表情を見せていた。その中には板葺の切妻屋根もいくつか混じっていた。

家はそれぞれが土産物屋になっていたり、蕎麦屋になっていたりしている。ここのはネギ蕎麦が名物だ。長ネギをそのままの形で蕎麦に添えて出し、客はこのネギをかじりながら蕎麦を食うのだという。空腹だったら食ってみたい気もしたが、生憎我々の腹には蕎麦を容れる余地がなかった。

梅雨の合間で空は青々としていた。だから取り付きの山の上から集落を見下ろすと、村はくっきりとした姿に映った。

由緒書によれば、会津西街道は徳川時代の初期に、会津藩主保科正之が、会津と日光を結ぶ道として開き、参勤交代のために用いたという。大内宿は街道沿いの主要な宿場として、早くから整備されたらしい。

今日まで余り姿を崩さずに残されたて来たのは、日本の文化にとってラッキーなことだ。日本人は自分たちの文化的なアイデンティティに無頓着なほうだから、こうした形に見える文化遺産は、腰をすえて保存していかないと、いつの間にか消えてしまう。

観光客が大勢押し寄せてくるようになると、住人たちの生活が変わっていくのは、ある面で避けられない。宿場の周囲には棚田が切り開かれているのだが、それらはどれも耕されることなく、雑草が生い茂っていた。観光産業に忙しくて、田を耕すものがいなくなったのだろう。

ともあれ梅雨の合間のひと時を、歴史的な空間の中でのんびりと歩くことが出来た。我々はここを辞して後、山間の道を北上して東山温泉に至り、その夜は温泉につかりながら、浮世の垢を落としたのだった。


関連リンク: 日々雑感

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