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宮廷歌人柿本人麻呂(万葉集を読む)


柿本人麻呂は、いうまでもなく万葉の時代を代表する歌人であり、日本の文学史を画する偉大な詩人である。人麻呂によって、歌の様式としての長歌が完成したことはさておき、人麻呂は、相聞的叙景歌というものに磨きをかけることによって、和歌というものの表現の可能性を最大限に引き出した。このことによって、和歌は我が国の言葉の芸術の、核ともなり心ともなった。

人麻呂の生涯については、詳細なことはわかっていない。大和に本拠を置く豪族春日氏の支流の出であるらしいこと、柿本朝臣を名乗ることから、朝廷にも一定の評価を得た家柄であるらしいことなどが推察されるが、その死には、「薨」や「卒」ではなく「死」という表現が用いられていることから、あまり高い身分ではなかったらしいことも類推される。

万葉集には、柿本人麻呂の歌が100首近く採録されており、そのうちの何首かは第一巻を飾っている。むしろ、人麻呂の歌があることによって、万葉集第一巻が堂々たる面目を保ちえているのである。

第一巻、第二巻にある人麻呂の歌は、いづれも儀礼的な目的のために書かれたものと目されている。それらは、天皇や皇子の行幸を寿ぐ歌であり、また、皇族の死を悼む挽歌である。このことから、人麻呂は宮廷の行事のために儀礼歌を作ることを命じられた宮廷歌人だったとするのが、今日の大方の通説となっている。

人麻呂の儀礼歌は、持統天皇の即位直後から作られていることからみて、人麻呂は持統天皇のお抱え歌人だったのではないか。人麻呂は、天武朝の時代に、既に相聞歌の名手として知られていたらしいが、持統天皇はその力量を認めて召抱えたのであろう。

人麻呂の儀礼歌は、朗々たる言葉の流れの中に、皇室の尊厳やこの国の神聖さを歌い、荘厳な響きと神話的なイメージに満ちている。

天武、持統両天皇の時代は、古代史の中でもまれな、平和で安定した時代だった。壬申の内乱を経て王権を掌握した天武とその妻持統にとっては、自らの手によって開いた太平であった。人麻呂は、この太平を朗々とした響きを以て謳歌した。

人麻呂の属した柿本氏は、壬申の乱に際して、大海人(天武)方に味方している。柿本氏が朝臣を賜ったのは、その時の功績によるものと思われる。だから、人麻呂にとっては、天武、持統の両天皇は身近に感じられた存在であり、また特別な忠誠の対象だったのではないか。

柿本人麻呂の作った儀礼歌のうち、ここでは寿歌三篇を取り上げてみよう。最初は、持統天皇が即位の直後に行ったとされる吉野への行幸を歌ったものである。

―吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌
  やすみしし 我が大王(おほきみ)の きこしをす 天の下に
  国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と
  御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に
  宮柱 太敷き座(ま)せば ももしきの 大宮人は
  船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る
  この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし
  落ち激(たぎ)つ 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも
反歌
  見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む

詞書によれば、持統天皇は即位の年からその翌々年にかけて六回も、吉野宮に行幸している。その一つに従駕して作ったのがこの歌である。淀みなく流れる言葉の響きが、大らかで高い格調をもたらしている。

吉野は、大海人が天智天皇の死後、都を逃れて身を寄せたところであり、壬申の乱に向けて挙兵の準備をしたところである。持統天皇は、この思い出の地に離宮を建てた。そこには、象徴的な意味合いがあっただろう。

人麻呂は、その持統天皇の立場に立って、離宮の造営を歌う。大宮人が舟を並べて落ち激つ滝の宮処に向かうさまは、新しい天皇のもとに国民がこぞって国作りに励むというイメージが付与されている。

次は、近江の旧京を詠んだ歌である。近江の旧京大津は、持統天皇の父天智天皇の都であったところ。この荒れたる都を過くときに作ったとあるが、おそらくは、持統天皇の命によって赴いたのではないか。

―近江の荒れたる都を過(ゆ)く時、柿本朝臣人麿がよめる歌
  玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひしりの御代よ
  生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに
  天の下 知ろしめししを そらみつ 大和を置きて
  青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか
  天離る 夷にはあらねど* 石走(いはばし)る 淡海の国の
  楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ
  天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども
  大殿は ここと言へども 霞立つ 春日か霧(き)れる
  夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮処 見れば悲しも
反歌
  楽浪の志賀の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
  楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

橿原の ひしりの御代、つまり神武天皇の時代から説き起こして、皇統をたどり、天智天皇の時に至って、石走る淡海の国に都が建てられたことを物語る。帝紀、旧辞によりつつ、神話的文脈の中で、天智天皇の業績をたたえているのであろう。だが、その都は、いまは荒れ果てて昔日の面影を残さない。人麻呂は霞立つ春日や夏草の茂みに対照させながら、そのことを歌う。中国の詩人杜甫の「春日」を思わせるようでもある。

この歌を歌うことによって、持統天皇と天智天皇の強いつながりを、群臣たちにアピールしたかったのではないか。それによって、壬申の内乱があったにもかかわらず、皇統は脈々としてつながっていることを、人々に訴えたかったのだろう。少なくとも、それが即位間もない持統天皇の意図だったと考えられもする。人麻呂は、そうした意図に忠実に従うことで、作品に荘重な趣を与えている。

志賀の都を読んだと思われる短歌には、次のようなものもある。

  淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古念ほゆ

最後に、皇太子軽皇子(文武天皇)の狩を読んだ歌を取り上げよう。

―輕皇子の安騎(あき)の野に宿りませる時、柿本朝臣人麿がよめる歌
  やすみしし 我が大王(おほきみ) 高ひかる 日の皇子(みこ)
  神(かむ)ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて
  隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を
  石(いは)が根 楚樹(しもと)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして
  玉蜻(かぎろひ)の 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に
  旗すすき しぬに押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ほして
短歌
  安騎の野に宿れる旅人うち靡き寝(い)も寝(ぬ)らめやもいにしへ思ふに
  ま草苅る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とそ来し
  東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
  日並(ひなみ)の皇子の命の馬並めて御狩立たしし時は来向ふ

この狩は、持統天皇の強い支持のもとで行われたらしい。というより、何人もの天武の皇子をさしおいて、草壁皇子の子であり自身の孫でもある軽皇子を引き立てるために、群臣を随身させて大規模な狩を催すことにより、後継者として印象づける狙いもあったようである。人麻呂は、そうした意図を十分に踏まえ、一篇を歌った。

「やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子  神ながら 神さびせすと」という表現には、軽皇子が天武・持統両天皇の正当な後継者であるという主張が明示されている。また、「日並の」の短歌には、群臣たちの先頭に立つ皇子の勇ましさが讃えられている。人麻呂は、こうした歌を通じて、我が孫に肩入れしようとする持統天皇の期待に応えたのであろう。

以上の歌を、よく読めば読むほど、そこからは、宮廷歌人として持統天皇に仕えた柿本人麻呂の実像が、浮かびあがってくるのである。


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