陶淵明「山海経を読む」から其二「玉臺凌霞秀(西王母)」を読む。
讀山海經其二
玉臺凌霞秀 玉臺 霞を凌いで秀で
王母怡妙顏 王母 妙顏を怡ぐ
天地共倶生 天地と共に倶に生じ
不知幾何年 幾何年かを知らず
靈化無窮已 靈化は窮まり已むこと無く
館宇非一山 館宇は一山にあらず
高酣發新謠 高酣 新謠を發す
寧效俗中言 寧ぞ俗中の言に效はん
玉台は霞より高くそびえ、王母はにこやかな顔をほころばす、天地が生ずるのと同時に生まれ、もう何年生きているかわからぬ(玉台は西王母のすむところ)
神霊の力は極まり尽きるところがなく、住まいは一山にとどまらない、酒に酔っては新たに作った歌を歌う、つまらぬ人間の言葉などは用いない
西王母は中国の伝説上の仙女、西山すなわち崑崙山に住み、すべての仙女を統率し、自らは不滅ながら、人間の刑罰と寿命を司るとされた。こんなところから、後世道教の影響のもとに、不老不死の神ともなったが、原型は荒々しい性格であった
山海経西山経は、西王母を次のように描いている。
西王母:神,其狀如人,豹尾虎齒而善嘯,蓬發戴勝,是司天之厲及五殘(西王母は神であって、その顔は人間であるが、豹の尾と虎の齒を持ち、叫び声は千里の彼方まで届く、ぼさぼさの頭に玉のかんざしを飾り、天の災いと5つの刑罰<墨、鼻切り、足切り、宮刑、死刑>を司る。)
これに対して、陶淵明は、西王母を荒々しい神としてではなく、柔和な女性として描いている。
「高酣發新謠」の部分は、崑崙山に周の穆王を招き、みずから作った歌を披露したという伝説によったのであろう。