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裁判員候補者への通知


裁判員候補者への通知が行われている。先週末に第一便が届き始め、昨日と今日とで該当者のほぼ全員へ届いているはずだ。もらった人は複雑な気持ちだろう。もらわなかった人はとりあえず胸をなでおろしたかもしれない。

何しろ該当者の数は約三十万人、有権者の三百人につき一人という勘定だから、当たる確率はかなり高い。筆者の家は有権者が四人いるから、その誰かに当たる確率は七十分の一である。それでも当たらなかったのは、運がいいのか悪いのか、判断に苦しむところだ。

国民がこの制度に及び腰なのは、裁判所側のPR不足にも一因がある。刑事裁判に国民が参加するという趣旨は分らぬではないが、なぜ今になってこの制度が導入されねばならないのか、その必然性のようなものがすっきりしない。つまり立法趣旨が国民の間に浸透していないのだ。

法律というものは、国民の間の広い意見を踏まえてこそ制定の意義がある。そしてその意見の背後に、現状に対する強い問題意識があれば、その法律は国民に強い支持を受け、進んでそれを受け入れようとする機運も高まる。ところが今回の裁判員制度に関する法律は、多くの国民が知らない間に制定されたフシがある。それゆえ国民の多くは、ある日突然晴天の霹靂のように、その内容を押し付けられた、と感じ取っているのではないか。

立法過程に関する議論を脇に置けば、この制度の趣旨そのものは歓迎すべきものだ。むしろ、成熟した民主主義にとって遅きに過ぎたといえる。

民主主義社会というものは、国民のコモンセンスに基づいたルールで成り立っている社会である。それは司法の場にあってもいえることだ。三権分立の建前によって司法機関は強い独立性を保ち、それが判決の公正さにつながっている側面も無論あるが、独立性が暴走するあまり、国民のコモンセンスと乖離しがちな危険もつきまとう。一般国民による司法参加は、その危険を弱め、司法の判断を国民のコモンセンスに近づかせるための仕掛けといえるのだ。

刑事裁判を巡るコモンセンスとは何か、議論しだすと果てがないが、一言で言えば正義の実現だろう。その正義とは、故なき被害を受けたものにとっては、被害に見合う裁きが行われることであり、なおかつ自分も裁判の当事者として納得できる裁判が行われるのを確認できることだろう。

ところが日本の従来の刑事裁判は、裁くものとしての裁判官と、裁かれるものとしての被告を中心にして、閉ざされた空間の中で行われてきた。そこには一般国民はもとより、被害者でさえ関わりあうことができなかった。そんな構図では、裁判とは裁判官はじめ司法の専門家が独占するところの特権的な商売で、被告はその顧客ということになりかねない。被害者のことは全く目に入らないのである。

これでは国民のコモンセンスが隈なく裁判に反映するという保障は心もとない。今回の制度改正は、こうした疑問に答える意味を持っていると考える。

だから候補者に当たった人は、自分自身を含めて国民の一人一人に正義が実現されるよう、がんばってもらいたい。それは成熟した民主主義にとっての、必要なコストなのだ。

もっとも、今回候補者になったからといって、即裁判員に任命されるわけではない。またならなかった人も、来年以降近い将来にあたる確率がある。この際、任命されたときに備えて、勉強しなおしてみるのもよいだろう。


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