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山部赤人の宮廷儀礼歌(万葉集を読む)


山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。

山部赤人は、柿本人麻呂より一世代後、平城京時代の初期、元正女帝から聖武天皇の時代にかけて活躍した。叙景歌を中心に旅の歌などを多く残しているが、本領は人麻呂に次ぐ宮廷歌人だったことにある。万葉集には、元正天皇の行幸に従って詠んだ歌や、聖武天皇の詔に答えて作った歌が幾つも載せられている。

続日本紀などにその名が見られないことから、人麻呂同様下級の官人だったのだろう。だが、その歌風は人麻呂の遺風を伝え、時に荘厳な趣に満ちていた。それ故に、宮廷歌人として、天皇によって認められたのではないか。

家持が「山柿の門」といって、この両者を並べたのは、宮廷儀礼歌の伝統の中で、この両者の持った重みに配慮したからではないかとも思われる。

万葉集巻六雑歌の部に、山部宿禰赤人がよめる歌二首が載せられている。その最初の一首について、北山茂夫は養老七年(723)における元正女帝の吉野行幸の際の歌ではないかと推論している。歌は吉野の宮を懐かしんで詠っており、女帝の思いを代弁しているかとも思える。おそらく、宮廷歌人として、赤人も女帝の行幸に従っていたのであろう。

―山部宿禰赤人がよめる歌二首、また短歌
  やすみしし 我ご大王の 高知らす 吉野の宮は
  たたなづく 青垣隠り 川並の 清き河内そ
  春へは 花咲き撓(をを)り 秋されば 霧立ち渡る
  その山の いや益々に この川の 絶ゆること無く 
  百敷の 大宮人は 常に通はむ(923)
反歌二首
  み吉野の象山の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも
  ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

かつて持統女帝の吉野行幸に従って人麻呂が詠んだ歌を髣髴とさせる。人麻呂の歌にあった神話的な荘厳さはないが、叙景のなかに、吉野の宮への懐旧の思いが満ち溢れている。特に、二首目の短歌は優れた叙景歌として、後の世の人々に影響を与えた。

万葉集巻三には、飛鳥の神岳に登った時の歌が載せらている。この歌は、先の歌にあった吉野行幸に際して、平城京をたって飛鳥にとどまった折詠われたのでないか。飛鳥は、天武、持統両天皇の故宮である。

―神岳に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
  三諸(みもろ)の 神名備山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる
  栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉葛 絶ゆることなく
  ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き都は
  山高み 川透白(とほしろ)し
  春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし
  朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ
  見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古思へば(324)
反歌
  明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

この歌に至っては、人麻呂のような神話的な雰囲気は見られず、自然を歌うことによって、人びとの懐旧の情に訴えている。人麻呂の時代にはまだ生きていた天皇の神性が、赤人の時代には弱まっていたのかもしれない。

万葉集巻六には、聖武天皇の紀伊国行幸が歌われている。続日本紀によれば、この年即位したばかりの聖武天皇は、遊覧を兼ねて紀伊国に遊び、仮宮をたてさせて、そこに十四日もの間滞在した。

―神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
  やすみしし 我ご大王の 外津宮(とつみや)と 仕へ奉(まつ)れる
  雑賀野(さひかぬ)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に
  風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ
  神代より しかぞ貴き 玉津島山(917)
反歌二首
  沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちてい隠(かく)ろひなば思ほえむかも
  若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る

仮宮のある雑賀野から、海中に浮かぶ島を臨む光景を歌ったものである。天皇の国見を寿ぐ気持が素直に現れている。雄大な風景を詠うことによって、国土の豊かさと、天皇の偉大さを強調することが、この歌の眼目だと思われる。同時に、二首目に見られるような生き生きとした叙景が、歌に新たな命を吹き込んでいる。

同じく、万葉集巻六に、聖武天皇の吉野行幸に際して、天皇の詔を受けて詠んだという歌が載せられている。

―八年丙子夏六月、芳野の離宮に幸せる時、山部宿禰赤人が詔を応(うけたまは)りてよめる歌一首、また短歌
  やすみしし 我が大王の 見(め)したまふ 吉野の宮は
山高み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音(と)そ清き
  神さびて 見れば貴く よろしなへ 見れば清(さや)けし
  この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ
  百敷の 大宮所 止む時もあらめ(1005)
反歌一首
  神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を吉(よ)み

この歌は、赤人の作品の中で、製作年次(736年)のわかる最後のものである。赤人は先に、元正天皇に従って吉野に赴いた際にも儀礼歌を作っていた。この歌については、賛否評価が別れているが、筆者などは、赤人らしい優れた歌のように思う。


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