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山部赤人:旅の歌(万葉集を読む)


山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。

儀礼歌と異なり、自由な発想の歌であるから、そこには、赤人の個性がいっそう強く表れている。すでに、儀礼歌においても、赤人は人麻呂の神話的なイメージを捨てて、叙景に新しい境地を開いていた。旅の歌には、その叙景的なイメージが美しく盛られている。

まず、万葉集巻六から、辛荷の島を過ぐる時の歌をあげよう。辛荷の島は、兵庫県室津の沖合に浮かぶ三つの小島からなる。赤人は、大和をたって、難波津から瀬戸内海を西へ向かっていたと思われる。

―辛荷(からに)の島を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
  あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず
  桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫き 吾が榜ぎ来れば
  淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の
  島の際(ま)ゆ 我家を見れば 
  青山の そことも見えず  白雲も 千重になり来ぬ 
  榜ぎ廻(たむ)る 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 
  隈も置かず 思ひそ吾が来る 旅の日長み(942)
反歌三首
  玉藻刈る辛荷の島に島回(み)する鵜にしもあれや家思はざらむ(943)
  島隠り吾が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上る真熊野の船(944)
  風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り(945)

桜皮とは、字の通り桜の皮を巻いた粗末な船のことだろう。そんな船をこぎつつ、辛荷の島までやってくると、そこからは妹が住む大和はもう見えない。周囲には、浦々と島の崎々が見えるのみだ。そんな折に、鵜を見ると、自分も鵜になって家のほうに泳いでいきたい気分になる。ざっとこんなところが、この歌に寄せた赤人の思いだったろうか。

自然や生き物に仮託しつつ、自らの思いを述べる、赤人の態度が良く現れた歌であるといえよう。

上の歌に続いて、敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時の歌が載せられている。敏馬の浦もやはり瀬戸内海沿いの浦である。

―敏馬の浦を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
  御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の
  沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻には 名告藻(なのりそ)苅り
  深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ
  間使も 遣らずて吾は 生けるともなし(946)
反歌一首
  須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ(947)

この歌も、自然の叙景に事寄せて、妻に寄せる夫の思いを詠み込んだものである。間使とは、男女の間を取り持つ使いのこと。それをやらずてとは、妻に対して、別れの挨拶を尽くせなかった悔いの気持だろうか。この時代、妻問婚が結婚の普通の形態であった。だから、赤人は別居していた妻と、十分別れをおしむ機会がなかったのかもしれない。

最後に、万葉集巻三から、伊予の温泉に至ったときの歌をあげよう。温泉とは道後温泉をさす。古くから名湯として知られ、今でも多くの人びとを集めている。赤人は、四国の国衙に赴任して後、この名高い温泉を訪ねたのだろう。

かつて、舒明天皇がこの地に遊び、また、斉明女帝は百済へ出兵すべく西へ向かう途中、伊予の熟田津に立寄った。赤人は、そうした歴史的な事実を踏まえてこの一篇を作っている。全体の調子が、儀礼歌を思い起こさせる。

―山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至(ゆ)きてよめる歌一首、また短歌
  皇神祖(すめろき)の 神の命の 敷き座(ま)す 国のことごと
  湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と
  凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして
  歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群を見れば
  臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
  遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)(322)
反歌
  ももしきの大宮人の熟田津(にきたづ)に船乗りしけむ年の知らなく(323)

道後温泉は、今では松山の市街地の一角にあるが、赤人の時代には山に囲まれた湯だったのだろう。赤人は、その温泉を囲む山の上から湯煙が立ち込める木群を眺め下ろして、遠き世の行幸を思い出した。

そこには、人麻呂同様宮廷歌人であった赤人の、特異波や仕意識が働いているようにも思える。

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