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防人の歌(万葉集を読む)


万葉集巻二十には、「天平勝宝七歳乙未二月、相替へて筑紫の諸国に遣はさるる防人等が歌」と題して、防人の歌がずらりと並んで載せられている。その数は八十数首、大伴家持はそれらの歌の間に、自作の歌をもちりばめて配している。

これらの歌は、大伴家持が自ら命じて集めさせたものである。兵部少輔の職にあった家持は、この年東国から防人の兵士を徴発し、難波津から筑紫に向かって船出させる任にあたっていた。その際家持は、防人が朝廷に歌を差し出すという先例を思い出して、東国の国府に防人の歌を集めるように命じていたのである。

防人とは、大化の改新後、唐、新羅の連合軍と戦って敗れて以来、北九州、対馬、壱岐の防備のために配された国境警備兵であった。総勢2000人ほどからなり、三年で交代し、任期中は自ら耕して自給生活を送った。古代における屯田兵である。8世紀に入ると、防人は東国の各地から徴発された。

防人らの歌は愛する人との別れを歌って、愛惜の情に満ちたものが多い。愛する人には妻や恋人、父母がある。防人自身の歌のほかに、妻や父が歌ったものも収められている。総じて飾り気がなく、素直な歌ばかりである。


  我が妻も絵に描き取らむ暇もか旅ゆく吾は見つつ偲はむ(4327)
―右の一首は、長下郡、物部古麿

妻の姿を絵に描く時間が欲しいものだ、そうすれば旅の途中にその絵を見て、妻の姿を思い描くことができるだろうに。この男は、絵を描く暇もないほどあわただしく、旅へ駆り出されたらしい。その思いが痛々しい。

  大王の命かしこみ磯に触り海原(うのはら)渡る父母を置きて(4328)
―右の一首は、某郡助丁、丈部造人麿

この男は妻のことよりも父母のことが気にかかったのであろう。あるいは妻はいなかったのかもしれない。天皇の命により、船を磯に触れつつ危ない思いをして、海原を渡っていかなければならない、その旅立ちの覚悟のような気持を歌った中に、父母への気遣いが現れたのである。

  水鳥の立ちの急ぎに父母に物言(は)ず来(け)にて今ぞ悔しき(4337)
―右の一首は、上丁、有度部牛麿

水鳥が飛び立つときのあわただしさのように、私もいとまなく旅立ってきたので、父母に別れの言葉を言うこともできなかった、それが今となって悔やまれる、という意。当時の防人たちのあわただしさが、この歌から偲ばれる。

  家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも(4347)
―右の一首は、国造の丁、日下部使主三中が父の歌

これは防人の父親が詠んだ歌。家で息子のお前を心配しているより、いっそお前の佩いている太刀になって、無事を祈ってやりたいものだ、という意。

  百隈(ももくま)の道は来にしを又更に八十島過ぎて別れか行かむ(4349)
―右の一首は、助丁刑部直三野

「百隈の道は来にしを」とは、陸路はるばるとやってきたことを歌ったのであろう。それをこれから先更に、舟に乗って八十島を過ぎつつ進んでいかなければならない。恐らく、難波津から筑紫へと船出する時の作であろう。

  立ち鴨(こも)の立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも(4354)
―右の一首は、長狭郡の上丁、丈部與呂麿

これも水鳥のあわただしさと同じく、旅立ちの騒ぎにまぎれつつ最後に見た彼女の心が忘れられないという意。

  葦垣の隈所(くまと)に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしそ思はゆ(4357)
―右の一首は、市原郡の上丁、刑部直千國

葦垣の隅に立って、袖もしほほに泣いていた妻のことが思い出される。「しほほ」とは、濡れるさまを現す上総の方言だろう。

  大王の命かしこみ出で来れば我(わ)ぬ取り付きて言ひし子なはも(4358)
―右の一首は、種淮郡の上丁、物部龍

これは国を出発したときのことを回想した歌だろう。天皇の命により出発するに際して、彼女は私に取り付き、しがみついて色々のことをいった。その純情が忘れられないという意味であろう。

  筑波嶺の早百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ(4369)
  霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを(4370)
―右の二首は、那賀郡の上丁、大舎人部千文

この二首は常陸の防人の歌。「筑波嶺の早百合の花の」は床にかかる序詞。その床にあった彼女の「愛(かな)しけ」様子が思い出される。彼女は昼見ても可愛かったなあ、という意。「愛しけ」は「愛しき」の方言。

二首目は、鹿島神宮の神に武運を祈って自分は来たのだという意。無事任を果たして帰りたいという気持が滲んでいる歌である。

  ひな曇り碓日の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも(4407)
―右の一首は、他田部子磐前

「ひな曇り」は「碓日」にかかる序詞、曇って薄暗いところから、碓日にかけたのであろう。道は遠く、まだ碓井峠を越えたばかりだというのに、彼女のことが恋しくて仕方がないという気持を歌ったもの。この防人は上野の者であったから、碓氷峠を越えて信濃に入り、そこから美濃路に出たのであろう。

  我が行きの息づくしかば足柄の峰這(は)ほ雲を見とと偲はね(4421)
―右の一首は、都筑郡の上丁、服部於由

旅の途中に苦しくなったら、足柄の峰に這う雲を見て、お前のことを偲ぼうという意。旅立ちに当たって、防人が妻に贈ったものと思われる。雲に人の面影をみるのは、当時の東国の民に共通の感情であったらしい。

  我が夫(せ)なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かなな奇(あや)にかも寝も(4422)
―右の一首は、妻服部呰女

これは、先の防人の妻が夫に応えて歌った歌。恋しいあなたを筑紫に送り出した後は、貞節を守って一人寝を続けますと誓ったのである。

  足柄の御坂に立(た)して袖振らば家(いは)なる妹はさやに見もかも(4423)
―右の一首は、埼玉郡の上丁、藤原部等母麿
  色深く夫(せ)なが衣は染めましを御坂廻(たば)らばまさやかに見む(4424)
―右の一首は、妻物部刀自賣

これも夫婦一対の歌である。当時の東国人は、国境の坂には精霊がいるものと思っていた。その坂を御坂と呼び、そこを通るときには謹んで精霊に無事を祈った。夫の歌は、坂を通るときに、お前には私がはっきりと見えるだろうかと歌い、妻はそれに応えて、あなたの衣を色鮮やかに染めておきましたので、きっと見えることでしょうと歌う。夫婦の愛情の程が偲ばれる、すばらしい唱和である。

なお、夫と妻の性が異なっているが、当時の妻は、夫の姓を名乗ることはなかったのである。

  笹が葉のさやく霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも(4431)

これは、昔年の防人の歌から取られたものである。こうした昔の防人の歌は、巻十四にも若干数収められている。

一首の意は、笹の葉がさやさやと音を立てる冬霜の夜に、七重にも重ねて着る夜着よりも、彼女の肌は暖かだったというもの。旅路の寒さが、愛人の肌のぬくもりを想い出させたのであろう。


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