井上勝生「幕末・維新」

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「日本開国期に、日本中が攘夷で沸き立ち、そうした世論の中心に天皇・朝廷の攘夷論があったという維新当初から強調された、日本開国の物語こそが、事実と違う」と井上勝生氏は言う(「幕末・維新」岩波新書)。事実はそんな単純なものではなかったというわけだ。

ペリーの来航は日本にとって寝耳に水の出来事だったようにいわれているが、実際には幕府は事前にそのことを知っていた。当時の幕府は、オランダ風説書とよばれるオランダからの情報をもとに、国際的な動きをある程度知っていた。また清がヨーロッパ列強によって侵略されつつあったことも知っていた。それ故、ペリーが初めて来たとき、幕府の交渉担当者は極めて慎重に対応した。対応した責任者である林大学頭などは、ペリーを相手に遜色のない態度で交渉にあたったと、氏は感心している。

幕府は日本の国力が、西洋諸国に比べて劣っているのをよくわかっていたから、西洋諸国との武力対立などは論外だと、常識的な判断をしていた。それ故、諸外国に対して等距離外交を取り、列強間の争いに巻き込まれるのを避けながら、緩やかな開国への方向性を探った。薩摩や長州を含めた有力大名のほとんども、当初は開国やむなしとの姿勢だったのである。というより、薩摩などは、すでに密貿易を通じて、外国と深いつながりを持っていたのである。

ところが孝明天皇は強固な攘夷論者であった。その頑固な攘夷論は、開国に向けて条約承認の説得にあたった堀田正睦をして、「正気の沙汰とは存じられず」と嘆かせたほどだった。天皇は、たとえ日本が黒土と化そうとも、外国を打ち払えと命じたのである。

ここで歴史は急展開するというわけである。どういうわけか、それまで開国路線だった長州、続いて薩摩も攘夷論に傾く。彼らは孝明天皇の攘夷論に相乗りすることによって、幕府と対決する大義名分を得ようとしたのである。

こう整理すると、幕末の日本は、幕府勢力と反幕府勢力が、それぞれ開国と攘夷という名分をかざして、相互に対立する権力闘争の様相を帯びるにいたったわけだ。反幕府勢力の中核は西南雄藩、とりわけ薩長の勢力である。その中でも、藩内の下級身分の武士たちがヘゲモニーを握っていく。かれらはやがて、諸藩を横断する形で手を握り合い、一致団結して徳川政権を打倒し、その廃墟の上に、有司専制といわれるような状況を作り上げていくであろう。

とまあ、こんな展望図を、氏は描いて見せたいようである。


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このページは、が2012年7月17日 18:17に書いたブログ記事です。

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