ヤン・コットのシェイクスピア論

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ヤン・コットの労作「シェイクスピアは我らの同時代人」は、シェイクスピア研究にコペルニクス的な展開をもたらしたと評価されている。

それまでのシェイクスピア劇の解釈は、19世紀の古典主義的な見方にしろ、20世紀の精神分析学的な見方にしろ、登場人物たち一人ひとりについてスポットライトをあて、彼らの行動や思想を解釈することを通じて、そこにシェイクスピアが何を盛り込んだかを詮索していた。それに対してヤン・コットは、シェイクスピア劇全体を俯瞰的に長めわたし、その底に太く流れる演劇的な深層海流を感じ取ったのである。

ヤン・コットはこれを歴史のメカミズムと呼んでいる。登場人物たちのあらゆる行為、あらゆる意図にはこの歴史のメカニズムが貫かれている。彼らは演劇の進展につれて、さまざまな決断をするが、その決断は自由なようでいて、そうではない。そこには彼らをそうせざるをえなくさせるような必然性が働いている。シェイクスピアは、この必然性をあらわにさせることによって、個人の行為が持つ歴史的な意味をあぶりだしているのだ、そうヤン・コットは強調する。

この必然性とはどのような力なのか。個人がある場面で下す決断を、操り人形の見えない糸のように動かしている力、これが必然性だが、これをどう捕らえるかは、歴史認識のあり方によって大いに異なると、ヤン・コットは考える。

歴史認識のパターンには、大きく分けて二つある。ひとつは、歴史とはある目的の実現に向かって、物事の流れが一直線に進んでいくという考え方である。進歩史観と呼ぶことができる。ヘーゲルやマルクスの歴史観は、基本的にはこの考えに立ったものだったといえる。

これに対してもうひとつのものは、歴史は繰り返しに過ぎないとする見方である。つまり歴史は進歩へ向かって前へ前へと進むのではなく、円環を螺旋状に繰り返しながら重なっていく過程である。だからある時間軸の果てには、新たな進歩があるのではなく、同じプロセスを繰り返すための再スタート点があるに過ぎない。これはニーチェの歴史認識と共通するものである。

シェイクスピアは後者の立場に立っていたと、ヤン・コットはいう。リチャード二世からヘンリー六世に至る八篇の王権劇を通読して感じることは、一遍一遍がまったく同じことの繰り返しで、そこには進歩らしいものが何もない。出発点たるリチャード二世と終着点たるリチャード三世を比較すると、両者の間には、なんら区別すべきものはない。つまりこの百年の間には進歩というべきものはなかった、全体として歴史は静止しているも同然なのだ、こういうのである。

ヤン・コットはまた、シェイクスピアの王権劇には神はいない、いるのは王だけだといっているが、それは二重の意味を持っている。

一つには、歴史にはそれを突き動かしている絶対的な意思など存在しないということである。絶対的な意思がないところに、進歩への動きなどない。だから歴史はジグザグに、しかも大きな形としては円環を描きながら進んでいく。また絶対的な意思がないところに支配するのは、人間の意志である。王だけがいるというのは、その人間の意思を集約して動かしているものが、王だという意味である。

他方では、王の意思は偶然のように見えても、やはりその背後に必然性が働いている。それは何か。権力への意思である。

権力というものは人間を異常にさせる力を持っている。異常性というものは偶然のように見えて必然性を持っている。権力を求める強烈な意思の前では、すべてのことが幻に化すという、抗いがたい強烈な推進力である。

人間の歴史とは、王たちの権力への意思が結実したものなのだ。王に集約される人間社会のありかたとは、畢竟権力を求めての戦いなのだ。

こういう考え方から、ヤン・コットはシェイクスピアの王権劇を総括して、権力を巡る戦いと王権の確立、そして古い王の没落と新しい王への交代、その繰り返しを描いたものだとする。

リチャード二世もリチャード三世も、この光の下では、驚くほどよく似ている。二人とも王になるためにあらゆる手段を用い、いったん王となるや新しい世代からの挑戦を受けて没落する。これはほかの王たちにもあてはまるプロセスなのだ。

こういったからといって、王たち一人ひとりの個性が問題にならないわけではない。シェイクスピアの偉大なところは、その個性のバラエティの豊かさを描ききっていることだ。リチャード三世のような強烈な個性は、凡人のよく描きうるところではない。

歴史の必然性といっても、それはひからびたものではない。それを演じるのは肉体と意思を持った個人であり、彼らが目指すのは王冠という手ごたえのあるものである。その手ごたえの中で、シェイクスピア劇の人物たちはリアリティを持って迫ってくるのだ。





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このページは、が2009年7月14日 19:31に書いたブログ記事です。

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