三島憲一「現代ドイツ」

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前著「戦後ドイツ」で、三島氏は第二次世界大戦の終了から1990年の再統一にいたるまでのドイツ現代史を、主に思想家の動きに焦点をあてながら解説していた。その続編ともいえる「現代ドイツ」は、再統一後、EU統合の動きが深まりゆく2000年代10年間の前半までをカバーしている。思想家の動向を中心にしていることは、前著と異ならないが、前著に比べると、政治的な動向により大きな配慮が施されている。

ドイツ再統一は、ドイツ人自身の内部から自発的に生まれてきた運動の成果というよりも、国際情勢の激変に刺激されて、タナボタ式に獲得された政治的成果だとする評価は、現代史研究者の中では根強い。即ち、1985年にゴルバチョフがグラースノスチ政策を初めて以降、旧ソ連圏内の諸国で一気に民主化の流れが加速し、1989年にはポーランドで共産主義政権が崩壊、ロシア内部でも、民主化の動きが強まっていた。そこへ、1989年のベルリンの壁の崩壊が起こった。ベルリン発のドイツ再統合の動きは、共産主義体制の崩壊をめぐる、こうした大規模な動きと連動していたとするわけである。

思いがけないことではあるが、願ってもないこの事態を、最大限利用したのが、当時のコール政権だった。東西ドイツ国民いづれも、再統一は時間をかけて、慎重に行うのが望ましいと考えていたが、コール政権は一気呵成にことを運んだ。その結果、再統一後のドイツという国に、大きな問題を残した、とするのが氏の基本的な見解のようである。

西ドイツの「基本法」146条には、「この基本法はドイツ民族が自由な決定によって定めた憲法が発効したその日に効力を停止する」と書かれていたが、それは将来東西ドイツが統一するに際しては、両国民全体の議論を踏まえたうえで、新しい憲法が制定されるべきだという意味に解釈されていた。それ故ハーバーマスも、「統一に先立って両独の市民とその代表者たちが自由な議論の中で、たとえ今までの基本法とそれほど変わらないものであろうと、新しい憲法を起草し、国民投票にかけて新しい国家を作るべきである」と論じていた。

しかし、コール政権はそういう手続きを取らず、「基本法」を拡大解釈することで、東ドイツを西ドイツに組み込むというやり方をとった。東西両ドイツは、平等の立場で再統一したのではなく、東が西に併合されるという形をとったわけである。

その結果何が起きたか。東ドイツの人々にとっては、急速な統一過程は、経済的・社会的な大混乱につながった。東の極端に生産性の低い国営企業は生き残ることができずに、あっというまに消えて行った。二束三文で西側の企業に売却され、膨大な人々が失業した。文化的にも、東は西に圧倒された。また政治の面でも、東側の従来の体制は、ナチス以上に非人道的であったとして糾弾された。つまり、生活をめぐるあらゆる次元で、東側の人々は西側の後塵を拝し、自分たちが二級市民だと感じざるを得ないような状態が生まれたのである。

西側の人々にとっても、東側の人々は負担と感じられた。東側の人々は、ろくに働こうともせずに、要求ばかりしているというわけである。

一方、東西ドイツの統一は、ヨーロッパの中でのドイツの優位を一層強いものとし、それがもとで、ドイツ人の間に強いナショナリズムの感情が沸き起こった。そしてナショナリズムはネオナチの台頭をもたらした。1990年代前半を通じて、ネオナチを中核にしたナショナリズムが、ドイツ全体を熱病のように席巻したというのである。

ネオナチの主な目標は外国人排撃にむけられた。それには、統一後東ヨーロッパから大量の移民が流入してきたという事情が働いていた。その背景には、基本法にあった庇護権請求権という条項があった。これは「なんぴとであれ自分の国で政治的に迫害されているならば、ドイツに亡命する権利がある」とするもので、政治的亡命を積極的に受け入れるというものなのだが、ドイツ統一の後で急速に流動化した政治情勢を背景に、この条項を利用して、ドイツに流入してくる人が飛躍的に増えたのである。

また、旧東ドイツにいた外国人の数も、バカにならなかった。これらの外国人は、条約労働者といって、ベトナムやモザンビークなど社会主義圏の国々との連帯のあかしとして受け入れてきた移民たちであった。

これらの外国人を対象にして、ネオナチによる襲撃事件が相次いだ。1992年から93年にかけては外国人への襲撃事件のニュースがない日はないというくらいだった。93年5月30日には、旧西ドイツのゾーリンゲンで、子どもを含む4人のトルコ人が焼き殺され、多数が大やけどを負った。

ナショナリズムの台頭に後押しされて、歴史の見直しを公然と求める者もあらわれた。その代表は「ファシズムの時代」を書いたノルテである。ノルテの議論を要約すれば次のようなものである。

「ユダヤ人抹殺は、スターリンによるウクライナの富農撲滅政策や強制収容所から学んだものである。一方、ユダヤ人世界会議はポーランド侵攻直後にナチス・ドイツに宣戦布告をしていた。だからユダヤ人との戦いは合法的な戦争だったのであり、ナチスがユダヤ人を捕虜にすることには法的な根拠があったのだ。また、スターリンとの戦いは、<アジア的野蛮>に対する戦いであり、自分たちがアジア的野蛮によって隷従させられることを防ぐ、自己防衛のための戦いだった」

こうした歴史解釈はさらに拡大して、第二次世界大戦は、民主主義とファシズムの戦いだったのではなく、共産主義に対する文明の戦いだったとする解釈につながっていった。日本の右翼が、大東亜戦争を、欧米の支配から東アジアの国々を開放するための正義の戦いだったというのと、よく似ている理屈だ。

このような発言がまかり通る雰囲気のもとで、「アウシュヴィッツは存在しなかった」というような極論も主張された。それは意図的に作られた反ドイツ・キャンペーンだというのである。やはり日本の右翼が「南京」は存在しなかったというのと同じような主張とも映るが、戦後西ドイツの公的・私的にわたるユダヤ人への謝罪と反省の態度からすると、これはコペルニクス的な転回ともいえる、大胆な開き直りだった。

こうした流れの中から、イスラエル批判を公然と展開する者もあらわれた。そうした人々の言い分は、ドイツも悪いことをしたが、現在のイスラエルも同じようなことをパレスティナに対して行っているではないか、というものである。先日、作家のギュンター・グラスが同じような趣旨のことを発言して、大いに問題となったが、それも、こうしたドイツ人の立場の変化を反映したものだということができる。

しかし、ネオナチの動きも、イスラエル批判も、強力な潮流になることはできなかった。先日のグラスの主張が、大方のドイツ人から否認されたことが、それを物語っている。ナショナリズムが暴走せずに、比較的短期間で下火になった背景には、EUへの統合を中心とした、ドイツの国際化の流れがある。

この著作は、ドイツのEUへの統合を示唆するところで終わっている。


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このページは、が2012年7月 9日 19:22に書いたブログ記事です。

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