堀川波鼓は、近松門左衛門の作品のうち、曽根崎心中から数えて五作目の世話物である。近松はそれを宝永三年に起きた実際の出来事に取材して書いた。
その出来事とは姦通事件であった。近松の時代に姦通は珍しい出来事ではなかったようで、近松はこの作品を含めて姦通ものを三つ書いているほどだ。このケースでは、派手な女敵討ちが世間の評判を呼び、近松もそれをテーマの一つとして話を進めている。
女敵討ちとは、妻を寝取った男を、寝取られた亭主が成敗するというものだ。現代人の感覚からすればすんなりと理解できることではないかもしれないが、徳川時代にあっては、妻を他人に寝取られるということは、男子として世間に顔向けできないほどの不名誉とされていた。だからそれに一定の結末をつけるためには、妻を殺して罪をあがなわせるのはもとより、妻を誘惑した男まで殺さずにはすまなかったのである。一番理想的な方法は串刺しといって、裸で抱き合っている男女を、焼き鳥の串焼きのようにして刺し殺すことであった。
姦通事件を扱う際には、よほど気をつけないと、テーマがあいまいに流れる恐れがある。というのも姦通というものは、女の合意を前提にしている限りで、強姦とは違って、悲劇になりにくい要素がある。強姦なら女は被害者である限り、悲劇のヒロインになりうるが、姦通の場合には、自分の意思が介在する限りにおいて、女の主体的な行為とみなされやすい。それは悲劇にはなり得ない性質のものなのだ。
もし姦通が悲劇になるとすれば、それは犯した罪とその結果として課される罰とが、あまりにも均衡を欠いていることに起因する。
姦通は、徳川時代においては、道義的に許されないことであった以上に、人としての自然のあり方に悖る行為であった。姦通を犯したものは、理由の如何を問わず、その行為に対して責任を負わねばならない、それは死という形で償われなければならない、こうした厳然たる掟が、ひとびとに課されていたのである。
現代人なら、破局した結婚を解消して、別の結婚をやり直すことが許されている。しかし徳川時代の人々にとっては、それは許されないことであった。とくに女にとっては、姦通は直接死に繋がるものであった。また妻に裏切られた男にとっては、それは放置して置けない出来事だった。妻の姦通を見てみぬふりをする男は、天下の腰抜け扱いされたのである。
姦通がもっていたこのような意味作用の体系を踏まえながら、近松はこの劇を描いた。近松のとりあげたモチーフにはいくつかある。
まず物語の主人公たる女が姦通に走った動機である。この動機をどのように解釈するかによって、ヒロインに対する見方が極端に違ってくる。男に迫られたあげく、意思に反して身を許したというふうに解釈するのであれば、それは強姦をうけたことに限りなく近くなりうる。逆に自分の意思から男を受け入れた、あるいは男を誘惑したということであれば、女の意思の性格を論じなければならなくなろう。
しかしこの劇を読むと、この肝心の動機がどうもよくわからない。近松は、女に酒の勢いがあったかもしれないが、自分から男を誘い込んだという風に描いておきながら、同時に実は自分の亭主に恋々たる情愛を感じていたという、描き方をもしている。
亭主を愛しているのならなぜ操を守り通せなかったか、自分の意思から男と抱き合ったものが、なぜその行為を恥じることがあるのか、現代人の立場からすれば、こうした問題意識がおのずと生じる。
だがそれは現代人としての我々が陥りがちな誤解であるのかも知れぬ。少なくともこの劇に登場する女は、亭主を愛しながらも、他の男に抱かれることを拒まなかった、しかもそこに矛盾はなかった、そう解釈できないこともない。
次のモチーフは、罰の重さだ。姦通を犯したものを待っているのは死ぬことのみである。主人公の女もまた例外ではない。あれだけ愛していると描かれていた亭主が江戸詰めから戻ってきて、ようやく夫婦としての幸福な生活が実現するという段になって、女に残されているのが、死ぬことのみだというのは、あまりにも残酷だ。
姦通は罪としては重いかもしれないが、死ぬことでしかあがなえないものなのか、こうした疑念もまたありうる。そこで女の妹が一芝居打って、姉の命を救い、せめて腹の中の子を産ませてやりたい、というようなことをいう。
だが貫通というのは、当事者だけの問題ではなくて、社会全体の問題と意識されていたがゆえに、それがどんな事情に基づくものでせよ、同情の余地はなかったのだろう。亭主は次第に周囲から圧力を受ける形で、最後には妻を死に追いやるしかないのだ。また、自分たちに姦通の汚名を被せた男を成敗せざるを得ないわけである。
こうしたわけでこの劇は、女と男のプラーベートな出来事として始まりながら、次第に社会的要請が実現されていく過程として描き進められていく。姦通劇は個人的な出来事ではなく、すぐれて社会的な色彩に彩られた公の関心事なのだ、近松はこのようにいっているようにも受け取れる。
江戸時代の女性は現代人以上に再婚率が高かったのですが。
夫の暴力に耐えかね、実家を後ろ盾に離婚を迫るだなんて話、ザラにありますよ。
明治時代の教育勅語の厳格さが、あたかも
江戸時代からの続きだと思われていますけどね。