横浜で大地震に遭遇す:東日本大震災の記録

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3月11日に起きた東日本大地震に、筆者は横浜で遭遇した。

この日、筆者は遊び仲間の豊穣たる熟女たち三人とともに横浜に遊び、中華街で食事をしている最中にこの地震にあったのだった。東北地方が蒙った激烈な災害には比較すべくもないが、それでも交通機関がマヒして、その日のうちに帰宅ができなかったなど、それなりに厳しい状況に見舞われた。

以下、この地震が多くの人々にもたらした苦難を記録しておく意味からも、筆者のような人間が経験したことを、地震災害の一端として書き残しておきたい。

筆者らはこの日の午前、横浜の三渓園を散策し、午後、バスで中華街にやってきた。そして街の中を散策した後で、2時近く、これまでに何度か入ったことのある横浜大飯店という店に入った。

昼食用には、好きなだけメニューを選べるという食べ放題のコースが設定されていた。筆者らは何種類かの料理を注文し、またフカヒレの姿煮を追加注文したりして、いつものように楽しく談笑したが、食事を始めて一時間ほどたったときに地震が起きた。

最初の一撃は2時40分過ぎに訪れた。びっくりするほど大きな揺れがきて、それがかなり長い時間続いた。今までに経験したことのないものだ。部屋の中の什器類が激しく揺れた。壁際の戸棚から食器類が飛び散り、天井のシャンデリアも、我々の腰かけていたテーブルも揺れた。筆者はとっさに、これは巨大地震の現れだろうと直感した。

周りにいた客たちの中には、テーブルの下にもぐり込むものもあったが、多くの客は外に避難し始め、店員も客を外に出るよう誘導した。我々も建物の大きく揺れるのを感じながら、三階の部屋から階段伝いに下へ降りて、外へ出た。

外へ出ると、中華街大通りに多数の人々が立ちすくんでいた。我々は交差点の比較的広い空間を選んで立ち、とりあえず状況を確認しようとした。建物が損壊する様子はなかったが、電柱や街路樹が大きく揺れるなど、地震の大きさが並々ならぬことが察せられた。

我々はもっと安全なところを求めて、近くにある横浜球場前の広場に移動した。そこにも大勢の人が避難していた。我々はとりあえず広場の入り口付近に立って周りの様子を見ていたが、そのうち(3時過ぎ)再び大きな揺れを感じた。これもさっきの揺れと同じように、まともに立っていられないほどの揺れだった。我々は柵用のハンドレールにつかまって、身の安全を図った。

この揺れが収まったあと、我々はより安全な場所を求め、広場中央の広い空間に移動して、そこで状況が改善するのを待つことにした。広場には次々と人が集まってきた。なかには小さな子供を抱いた若い母親の集団もあった。

T女が携帯電話で、ニュース速報を確認したところ、はじめの揺れは三陸沖が震源でマグニチュード8.8、二度目の揺れは茨城県沖が震源でマグニチュード7.9、また最初の地震の揺れの強さは、宮城県で震度7を記録したほか、多くの地点で震度6以上を記録した、関東地方の揺れもすさまじく、横浜は震度6だった、こんなことがわかった。

5時近く、我々は帰宅のことを考え始めた。JRをはじめ殆どの交通機関がストップしており、唯一考えられるのはタクシーだけだった。そこで通りに出てタクシーの来るのを待ったが、なかなかつかまらない。そこで路上では無理かなと思い、桜木町のタクシープールまで行くことにした。途中、路上には舗装の裂け目から砂があふれ出し、ビルの谷間になったところでは、地面が陥没して見えるところもあった。

タクシープールでは大勢の人が長蛇の列を作っていた。とりあえず列に並び様子を見たが、ここにもタクシーがやってくる様子はない。一度だけタクシーが現れて乗客を降ろしたが、そのタクシー(第一タクシー:ナンバー1205)の運転手は行列を待っている人のところには向かわず、突然割り込んできた二人の女を乗せて去った。恐らく割増料金に目がくらんだのだろう。

そのうちあたりが暗くなり、寒さのために体が冷えてきたので、無駄な列にならぶのはやめて、どこかで温かいものをとり、今後の行動を検討しようということにした。

我々は裏通りの飲み屋に入って寄せ鍋で身を暖め、テレビニュースで地震の様子を確かめた。ニュースは津波による被害のすさまじさを伝えていた。

画面には、巨大な津波が町全体を呑み込んでいく様子が写され、それを見守る人々の恐怖にとらわれた表情が映し出されていた。甚大な数の人々が想像を絶する被害を蒙っただろうと察せられたが、今はまだ実態が明らかになるにはほど遠い状況だということだけがわかった。

これからどうしようか、4人で話し合った。交通機関が再開する見込みはないということなので、帰るとしたら、タクシーしか手段はない。とにかく外でタクシーを捕まえようということになった。

幸いなことに、タクシーはすぐに捕まった。回送の表示をしながらやってきたタクシーに、T女が直談判して、乗せてもらったのだ。男の筆者ではそうはいかなかっただろう。

そのタクシーの運転手は人のよさそうな人物だった。回送の表示をするのは、こうしたケースでの常套手段で、乗車拒否の責めを回避するための便法だといって笑っている。今日は一日商売にならず、会社からは一人でも多く乗せろと言われていた矢先、東京までならいってもいいだろうと思って、お乗せすることにしたという。

だが道路は異常な混みようだった。遅々として一向に進まない。大勢の人々が、立ち往生した家族を迎えに行くため、車で道路に殺到したのだろう。

タクシーの運転手にラヂオニュースをかけてもらい、状況の把握に努めた。とりあえず秋葉原まで行ってくれと伝えたが、場合によっては各自の家まで送り届けることも視野にいれていた。交通の再開状況に応じて弾力的に考えようと腹をくくっていたのだった。

道路の混雑はなかなか収まらない。筆者もタクシーの運転手も、いまの時間帯は東京から外へ向かっての交通が主体で、東京へ向かう交通は比較的にすいているだろうと予想していたのだが、それが外れた。東京に残された家族を迎えるために、大勢の人々が車で道路を塞いでいるのだろう。

そのうち、浅草線の一部をはじめ、地下鉄や私鉄の一部がぼちぼち開通したとの情報が伝わってきた。12時近くには、新宿線も開通したとの報道があった。

筆者はなんとか先が見えた気分になった。M女は家がある瑞枝まで行く道が開けた、T女は曙橋にある娘の家を頼るという、残るのはY女と筆者だが、Y女は筆者と同じ東武野田線沿線に住んでいる。だから本八幡までいって、そこからタクシーに相乗りすれば、何とか帰ることができるだろう。ラヂオニュースでは、地下鉄は終夜営業するといっている。

こう胸算用して、とりあえず五反田で降ろしてくれと運転手に頼んだ。タクシーは依然遅々とした進みようで、いつになったらまともな走り方ができるやら、見当もつかない、地下鉄に乗りかえたほうが先が読みやすいと思ったからだ。

心の余裕ができたところで、T女から携帯電話を借り、妻に連絡した。電話はすぐにはつながらなかったが、やがて妻の声を聴くことができた。何とか家に帰れたのだろうと、筆者はひと安心の気持ちになった。

五反田駅に降りたのは午前一時だった。乗ったのは前夜の午後8時前だったから、わずか20キロほどの道のりに5時間以上かかったわけだ。車を降りると数人の女性がタクシーに近寄ってきて川崎までなんとか乗せてほしいという。運転手は道がわからないといって断ったが、そこをなんとか乗せてほしいと、T女も加わって懇願したところ、結局乗せてもらえることになった。この運転手はとことん人の好い人間だったのだ。

五反田駅につくと、まっすぐトイレに向かった。5時間以上も我慢していたのだ。

時間は深夜一時を過ぎているし、朝方から仕事がある。これから家に帰っても、寝る時間もないだろう。こう思い直して、ホテルに泊まろうとしたが、付近のホテルはすでに満室だ。仕方なく地下鉄に乗ることにした。

浅草線に乗って東日本橋まで行った。そこから新宿線に乗り継げばよい。M女は、明日は仕事がない身なので、このまま新宿線に乗って家に帰るのが最上の選択だ。T女とM女はもしホテルがとれれば泊ったほうがよいという。そこでここでM女と別れ、残りの三人は外へ出てホテルを探した。

コンビニの店員から東横インを紹介されてそこを訪ねたが、既に満室と断られた。しかしロビーには何人かの人が休んでいる。T女はわたしたちもこのように休ませてくれませんかと頼み込んだが、店員は事務的にすげない返事をするばかりだ。

仕方なく外へ出て、近くにある日本橋小学校を訪ねた。ラヂオ放送で、都心の公立学校が帰宅難民のために開放されていると聞いていたからだ。だが学校は閉ざされていた。

T女がY女と一緒に娘の家に行くといいだした、そうしてもらえれば筆者も安心だ。女性三人の安全が確かめられれば、あとは筆者ひとり、どうにでもなると思ったからだ。

そこで彼女らを新宿線に乗せ、筆者は深夜の路上でタクシーを捕まえようとしたのだが、タクシーはやはり、いつまでたってもつかまらなかった。結局あきらめて、筆者も新宿線に乗り、本八幡に向かった。そこから自分の家までは数キロの距離、最悪の場合は歩いてでもたどり着ける。

やはり本八幡駅でもタクシーは捕まらなかった。タクシー乗り場には長蛇の列ができているのに、タクシーがやってくる気配がないのだ。駅前にあるカプセルホテルも満杯だ。

近くをうろつき歩いているうち、一軒の餃子屋が店を開いているのが目についた。中に入ると大勢の客が腰かけている。店員がすぐに出てきて、営業はもう終わりましたが、困っている皆さんのためにスペースを開放しています。また暖かいスープぐらいならお出ししたいと思いますので、よろしかったら夜明けまで休んで行って下さいという。筆者はいたく感心して、厄介になることにした。

夜明けとともに店の中にいた人々は、銘々店員に感謝の言葉をのべながら外へ出ていった。筆者も外へ出て、船橋方面に向けて歩き出した。家までは順調にいけば二時間ほどの距離だし、歩いているうちにタクシーがつかまるかもしれない。

タクシーの殆どは人を乗せていたが、中には回送表示のものがあった。先ほどの横浜からの運転手の言葉を思い出して、そのうち何人かにの声をかけてみたところ、どの運転手からも拒絶された。なかには尊大な態度で、顔を逸らせるものもいる。そういう輩には非常に腹が立ったが、こんなところで憤っていても始まらぬと思って、我慢しながら歩き続けた。

だが途中で脚が痛くなり、下総中山から先には歩けなくなった。そこでタクシー乗り場でタクシーの来るのを待つことにしたが、ここでもタクシーの来る気配はない。

駅前の公衆電話ボックスから妻に電話すると、ニュース放送では、総武線なら7時過ぎに動く予定だという。筆者はやや目の前が明るくなるのを感じた。

総武線も野田線もそれぞれ再開第一号車に乗って、家に着いたのは8時半頃だった。妻に聞けば、昨日は平井にある職場から歩いて帰ってきたという。居間の床にはヘルメットが転がっているのが見えた。

これをかぶって3時間半一目散に歩き続けたのだろう。筆者は一時間足らずで音を上げたわけだから、妻の方が各段に丈夫だったわけだ。

家の中は、何事もなかったように平和な表情をしていた。横浜があれだけ強く揺れたのだから、船橋もさぞ揺れたことだろう、そう思って家の中がメチャクチャになっていることを覚悟していた筆者は、予想がいい方向に外れて、嬉しい気持ちになった。

熟女たち三人もなんとか無事に過ごしたことだろう。安堵感を抱いた筆者は、その後不眠の時間を取り戻すように眠った。





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このページは、が2011年3月13日 12:47に書いたブログ記事です。

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