ロナルド・ドーア「金融が乗っ取る世界経済~21世紀の憂鬱」

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ロナルド・ドーアといえば日本研究で有名な社会学者だ。筆者も若い頃に「学歴社会~現代の文明病」などを読んだことがある。1925年生まれと云うから、80歳をとっくに超えている。そんな氏が「金融が乗っ取る世界経済~21世紀の憂鬱」と題して、この20-30年ほどの短い間に世界中で進行した金融資本による経済の制圧と云う現象を、嘆かわしい事態として描き出している。老体にムチ打って慨嘆せざるを得ないほど、この現象は度が外れて異常だというのだ。

氏は先進産業国における金融化と云われる趨勢の本質を、総所得において金融部門の取り分が大きくなる傾向だととらえている。総利益所得に占める金融部門の割合が一貫して増加傾向にあること、金融部門のスケールの成長率がGDPの成長率をはるかに上回ること、その結果金融業のGDPに占める割合も高くなること、などである。そしてポール・クルーグマンの次の言葉を引用している。

「ここ数年間、金融業はアメリカの総生産の8パーセントを占めた。一世代前は5パーセントだった。その増加分の3パーセントは、結局何の役にも立たない、無駄・詐欺に費やされた3パーセントだったろう」

金融業の大部分が無駄・詐欺だという認識は、今日の金融が実体経済を円滑にさせるという金融本来の役割を離れて、実体経済の犠牲の上に金融業者の利益ばかりが追及されているということを示しているのだろう。

金融化を邁進させた原動力は三つある、と氏はいう。①企業がますます投資家の所有物となってきたこと。②各国政府が「証券文化」の普及に努力したこと。③金融業者が高度な金融工学を駆使し、「投機的な金融市場」を作り上げて、大儲けに成功したこと、である。

かつての企業は、投資家ではなく経営者が主役だった。投資家の利害は、労働者や関連企業や地元社会と並んで、経営者が考慮すべきひとつの要素にすぎなかった。いまでは投資家の利益が何にもまして優先される。投資家は短期間で利益が上がるのを期待するから、経営者は長期的なプランにもとづいて企業の運営をするよりも、短期的な利益を出すようにと動機づけられる。企業は社会の公器などではなく、投資家のために利益をあげる手段にすぎなくなった。

金融化は社会に対して様々なインパクトをもたらす。その多くは健全な社会にとっては憂うべき現象につながる。すなわち、①格差拡大、②不確実性・不安の増大、③知的能力資源の不適正な配分、④信用と人間関係の歪み

金融化は所得や富の格差拡大に拍車をかける。金融化がもっとも進んでいるのは英米のアングロサクソン社会だが、そこではミドルクラスの所得が停滞する一方、富裕層の所得はますます拡大する。アメリカでは上位の1パーセントの人々が個人資産の38パーセントを持っているとされる。また金融業従事者の所得も他の分野に比較してダントツに高い。加えて英米では新自由主義の影響もあって、所得税の累進性が緩和され、金持ちはますます金がたまるという状況が出来上がっている。

かつて企業経営にとって重要とされたステークホルダーへの配慮はほとんどナンセンスとされるようになった。労働者にリスクがしわ寄せされるケースが増え、その結果社会にとって不確実性・不安性が拡大するようになった。

金融部門の所得が他の分野より高いことは、優秀な人材を独占することにつながる。その結果、政府や製造業へ必要な人材が集まらないといった事態も生じかねない。虚業が実業を抑圧するのだ。

金融の複雑性は情報の非対称性を生む。そこで金融についての知識を悪用して、人々から金を巻き上げたり、債務者の無知に付け込んで搾取するなどの事態が日常化する。クルーグマンは次のようにいっている。

「マドッフ事件とウォール街の毎日の仕事とは、どう違うだろうか。ウォール街の金融業者が、投資家がさっぱり気づかず、理解もできない、ひどい損失のリスクに彼らをさらしながら、莫大な手数料を巻き上げるかわりに、マドッフは、より簡単に、ただ、お客の金を盗んでしまっただけなのである」

ここまでくれば金融が実体経済にマイナスに働く仕組みが明らかになるだろう。金融が実体経済の犠牲の上で繁栄する、これはまさに本末転倒の事態だ。

金融業者が企業の経営権を取得して、余剰を徹底的に搾取するやり方などは、金融による実体経済への究極の支配形態といえるだろう。

これには二つの形態がある。ひとつは「余剰資産吸い上げ型」というもので、短期間経営権をコントロールして、その会社が万一の事態に備えて蓄えてきた余剰資産を吐き出させ、それを売らせて収益を上げ、適当な時点で売り飛ばすというやり方である。

もぅひとつは、プラーベート・エクィティ、MBAなどであり、中長期間、会社の経営権を握り、徹底的にリストラを行って収益をあげるやり方である。

日本ではブルドッグソースが買収されそうになったときに、増資のテクニックを通じて徹底抗戦し、買収を免れたことがあった。その時には日本は国をあげてブルドッグソースに味方した。ヘッジファンドはルール違反だと抗議したが、この時にはルールよりも道義が買ったわけだ。

こんなことはアメリカでも起きている。アメリカ人にとってなじみの深い企業が日本の企業によって買収されようとすれば、アメリカも国をあげて反対し、その剣幕に押されて日本企業が買収意欲をそがれたことは一度や二度ではない。アメリカでは正義にかなったことだと思われることを日本企業が行おうとすればそれは不正義になる。だから日本人はもっと堂々と物をいったほうがいい、そうドーア氏は忠言する。

ともあれ、金融化が英米を中心に進んできたことは上述のとおりだ。その傾向は、いわゆるグローバリゼーションの一貫を担う形で、近年は先進国全体に広がりつつある。日本も例外ではない。とりわけ小泉・竹中の新自由主義路線が金融化を一気に加速させた。

最近では日本でも、いわゆる金融アナリストたちが跋扈するようになった。エコノミストのような硬いと言われた経済誌においてさえ、一昔前は学者の寄稿が殆どだったものが、最近では金融アナリストの記事で埋め尽くされているといった具合だ。彼らは洗脳世代と云われ、アメリカで叩き込まれた金融理論をふりかざして、よく訳の分からない人々を脅かしているというわけなのだ。

そんな連中が、経済の停滞を破るためと称して、インフレ政策を勧めたりする。インフレは言うまでもなく、反社会的なものの最たるものだ。それを政策の柱として取り入れようと主張するような金融アナリストは、欲に目がくらんで、自分の言っていることが良く理解できていないか、それとも理解しながら他人の懐を犠牲にして自分の懐だけを豊かにしようと企んでいる悪党だとしかいいようがない。

ドーア氏の老いてなお熱烈たる議論を読んでいると、同じく老人たる筆者もまた、情熱のかきたてられるのを感じるのである。





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このページは、が2012年1月21日 18:13に書いたブログ記事です。

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