「あなた」とはやさしい響きのする言葉だ。いまでは話の相手方に呼びかけるときの呼称、あるいは二人称代名詞としてもっともよく使われている。
もともとは空間を表す言葉で、あちらのほうという意味をもっていた。現代語にある「かなた=彼方」というのに近い。また時間についても使われ、過ぎ去った過去やこれから来る未来をさすようにもなった。これが徳川時代に、話の相手方に対する尊称として用いられるようになったわけである。当初は「あなたさま」という具合に使われることが多かったようだ。相手に対する敬意が殊更に込められていたのである。
このように目上の人に対する呼称として使われ始めたわけだが、最近では同僚や目下のものにも使われるようになった。それに伴って、敬意のニュアンスが薄れてきた。
日本語では、ある呼称が目下のものに使われるようになると、目上の者には使われなくなるのが普通の現象だ。この点は、相手の如何にかかわらず同一の代名詞を用いるヨーロッパ言語と大きく違う。
しかし今のところ、目上の者に対する呼称として、「あなた」以上に相応しい呼び方は生まれていない。だから目上のものと話していて、相手を指示する代名詞を使わねばならないような状況に直面すると、多くの人は軽い困惑を覚えるのではないか。
このような場合、目下のものはいくつかのパターンの中から言い方を選択する。一番無難なのは、相手をその肩書きで呼ぶことである。相手が自分の上司なら、課長とか部長と呼ぶわけである。相手が自分の上司でないときには、その人の社会的な地位や肩書きで呼ぶ。場合によっては「何々様」というように名前に「様」をつけて呼ぶ場合もあるだろう。
こんな場合に「あなた」を使う人はそう多くないと思うが、それでも中には「あなた」を選択する場合があるだろう。これは目上の者との間に、親愛の関係が成立している場合には許される。「あなた」という言葉のなかに含まれていた敬意の感情が、まだ消え去っていないから起こることだとも考えられる。
「あなた」という言葉がもっとも似合うのは、恋人や夫婦の間での会話だろう。一昔前の歌の文句に「あなたーなんだい」というのがあったが、そのホンワリとしてやさしい雰囲気がこの言葉とよく似合っている。
しかし他人に対して「あなた」というときには、何かしらよそよそしさを感じさせる場合もある。丁寧な言い方ではあるが、心がこもっていない、こんな風に受け取られる場合が多いようだ。
先日この国の総理大臣がインタビューの席上、記者の質問に腹を立て、「あなたとは違うんだ」と発言して話題になったが、このとき使われた「あなた」には、よそよそしさに加えて、軽侮の感情も含まれていたといえる。
このように「あなた」という言葉は、一筋縄ではいかぬ、重層的な意義を内包している。だからその使い方には十分気をつけないといけない。
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