浄瑠璃御前物語

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浄瑠璃の歴史が浄瑠璃御前物語というものから始まったことはほぼ定説となっている。この物語は東海道の宿場を舞台に展開されたもので、宿場の遊君と義経との恋をテーマにしたシンプルな物語だ。

諸本があっていくつかのパターンが認められるが、金売り吉次の一行とともに宿場に泊まった御曹司の義経が浄瑠璃御前に一目ぼれし一夜の契りを結ぶというのが基本となる筋である。その後義経は奥州へ向けて出発することになるが、後で戻ってきて別の働きをするという異本も存在する。

この物語がいつごろ成立したのか、参考になるのは実隆公記文明7年(1475)の記述である。その中で実隆は当時盛んだったらしい芸能の種類に言及しているが、そこに検校の平家、坊主の因縁物語、まんのう長者などの昔物語と並んで浄瑠璃御前と信多殿の物語が含まれている。

ここに言及されている浄瑠璃が誰によって語られたのか、またその内容がいかなるものだったかについてはつまびらかでないが、少なくともこれによって、浄瑠璃御前物語の成立年代が推測できる。多分15世紀の半ばごろに出来上がったのだろう。

15世紀半ばといえば、曲舞や説経が盛んだった時期だ。どちらも語りの芸能である。それと並行するような形で浄瑠璃御前も語られるようになったのだろう。筋の内容からして、東海道の宿場の遊女たちが語り始めたという説もある。説経が演技を殆ど伴わない純粋の語りだったのに対して、浄瑠璃午前物語は、遊女たちによる舞のような演技の要素も含まれていたようだ。

後に都にも広まり、それが実隆のもとにも届いたのだろう。やがて盲僧がこれを語るようになったが、そうなると演技よりも語りの要素が一段と強くなったことは容易に推測できる。

浄瑠璃御前物語は十二段からなるのが基本だったようだ。平家物語が十二巻からなっていることを意識したもののようだが、必ずしも十二段でなければならない必然性はなかった。それゆえ七段ものがあったり、あるいは十六段ものがあったりもした。17世紀に入ると六段ものが主流になったが、これは新しく生まれた浄瑠璃の多くが六段構成をとったことに倣ったのだと思われる。

段組は物語のプロットを単位にするもので、段相互の関連は緩やかなものだった。各段にどんなプロットをさしはさむかは、語り手によってさまざまだったのである。それゆえ同じく浄瑠璃御前物語と銘打っていても、色々な筋書きのものが混在していた。

その後に生まれたさまざまな浄瑠璃作品が、浄瑠璃御前物語で用いられていた節付けをそのまま用いていることに唯一の共通点をもつことからわかるように、浄瑠璃は、語り方の独自性によって他の語りの芸能から区別されたのである。






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