ワーキングプア:平成の経済難民

| コメント(0) | トラックバック(0)

世が平成と改元してよりこのかた、日本の国は少しずつ調子がおかしくなってきたように思えるのだが、最近に至っては、すっかり狂ってしまったように見える。狂いは様々な方面に見られるのであるが、特に労働をめぐる環境に著しい。ワーキングプアと呼ばれる人々の大量の出現は、その最たるものである。

ワーキングプアとは、耳慣れぬ言葉だ。だが今や日本の現在の姿を象徴する言葉となりつつある。字義通り解せば、汗水たらして働いても、生活するに足る所得を得られない人々をいう。働く意思を以て、働いても、働いても、満足な所得を得られない。そういう人たちが、社会の多数を占めつつある。

一昔前には、貧しい人を指していうのに、貧乏人という言葉があった。そこには、社会の仕組みから取り残された人々に対する軽侮の感情が含まれていたと同時に、何となく人間的な響きもあった。貧乏人は、貧乏人なりに暮らしが成り立つ寛容さが社会にあったからだろう。ところが、ワーキングプアという言葉には、うすら寒い響きしか感じられない。

ワーキングプアとは、言葉が目新しいように、ここ数年の間に顕在化した現象である。主に、中小零細事業者の間で深刻になっているようだ。かつて日本の経済を支えてきたこれら中小零細事業者が、厳しい競争の中でめちゃくちゃに価格を値切られ、採算があうどころか、自分の生活もままならなくなっているさまを、先日テレビの特集番組が紹介していた。

番組では、繊維加工などの伝統的な地場産業で、この現象が深刻化していると報じていたが、それにとどまらず、ワーキングプアの現象は広範な部分で広がっているようだ。非正規雇用職員や働く女性なども、そうした人たちに含めることができる。

平成改元と前後してバブルがはじけるや、日本経済がなすすべもない泥沼に陥ったことは記憶に新しいことだ。この事態に直面して、政治家や経営者は、本当になすこともなく、ただ呆然としていたかに見える。その結果、ロスト・ディケード(失われた10年)といわれるような沈滞の時期が長く続いた。

ここ数年、長かった泥沼から脱出して、日本の経済にもやっと、ささやかながら上向きの雰囲気が戻ってきたといわれるようになった。そのことに便乗して、政治家や経済学者は、照れることなくものを言うようにもなった。いわく、自分たちの進めた構造改革が効果を現した成果だと。

だが、経済指標が上向きになったからといって、それを文字通りに実感出来る者は少ないのではないか。景気がよくなったのは、金融関連や一部の輸出関連産業に偏った現象であり、国民の大部分には、その恩恵がいきわたっていないというのが正確なところだろう。

本来国が豊かであるということは、豊かさが国民の隅々まで行きわたるさまをさしていう。ところが、今の日本はどう見てもそうは思えない。ワーキングプアに象徴される国民の貧困化が、局部的な現象にとどまらず、社会の様々な分野にわたって、深く広く進行しているように思えるからだ。

なぜ、こんなことになっているのか。

まず、景気回復が、堅調な内需によるものというより、外需に支えられたものであることだ。特に中国のすさまじいまでの経済成長に助けられている。外需だよりの成長が、その国にどのような効果をもたらすかは、改めて言うまでもない。国民経済の全体としての底上げには、なかなかつながらないのである。

本質的なことは、一国の経済資源が、国民の各層にいびつな形でしかいきわたらないと、国全体としては健全な姿とはいえないことだ。構造改革といい、規制緩和といい、政府や経営者団体の主導によってなされてきた政策が、近視眼的には冨を増大させる効果をもたらしたこともあっただろう。これまでの経済学のセオリーからすれば、国民経済規模でパイの大きさが拡大すれば、国民一人一人の福祉も向上されるというのが常識だった。

だが、現実として生じた事態がワーキングプアの拡大というのでは、何のための経済の成長なのか、誰しも首をかしげざるを得ない。

そうなったことの原因を、筆者などは、この国の労働市場の特殊性にあるのではないかと思ったりするのである。

日本には、そもそも、労働市場などというものは、あってないようなものであった。日本の企業は、個々に学卒者を採用して、自ら教育訓練を施し、終身雇用を保証することで企業への忠誠を導き出し、労使一体となって企業の存続と成長を図ってきた。労働組合といっても、企業内組織にすぎなかった。こういう体制にあっては、企業をはなれた人間は、労働者として一人前の権利を行使できなくなる。

欧米的な労働市場のモデルにあっては、企業と労働者は、労働市場を通じて平等の立場で向かい合う。企業は、日本のように学卒者を一本釣りするのではなく、労働市場を通じて調達するという建前だ。このようなモデルにあっては、終身雇用は例外である代わりに、労働者はどんな企業を渡り歩いても、そのたびに条件が悪くなるといった不利を被らずにすむ仕掛けがある。労働者の権利が、労働市場を通じて確立されているからだ。

日本の政治家や経営者は、近年の規制緩和といわれる一連の流れの中で、欧米的なやり方を労働の分野にも持ち込んだ。だが、欧米流の労働条件は、成熟した労働市場を前提としている。その成熟した労働市場が存在しないところに、欧米流の労働政策だけを持ち込んだら、どういうことになるか。

非正規雇用の蔓延と、その生活レベルの極度の低下だった。これらの人々は、未来に希望を持てないほど、打ちのめされている。労働難民あるいは経済難民という言葉も生まれている。

そしてまた、ワーキング・プアの大量登場である。ワーキングプアの背景には、アジアからの労働力の移入という問題もある。労働市場が確立していないから、日本の経営者には、これらアジアから来た人々を、不当に安くこき使って恥じないものが多い。そのつけが、日本の零細事業者や労働者に及んでいる。

非正規職員やワーキングプアと呼ばれる人々が、この勢いのままに拡大していけば、日本の将来はどうなるか。日本人は、よくよく考えてみるがよい。


関連リンク: 日々雑感





≪ 子殺しと子どもの自殺 | 日本の政治と社会 | 2007参院選:自民党大敗の意味 ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/59

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

この記事について

このページは、が2006年12月16日 10:30に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「説経の節回し(哀れみて傷る)」です。

次のブログ記事は「幸若舞の世界(人間五十年 夢幻の如くなり)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。