小野善康氏の国債論

| コメント(0) | トラックバック(0)

小野善康氏が展開する国債論は非常にユニークだ。国債というものは、現役世代にとっては国の借金が増えて国家経済が危うくなることを意味し、将来の世代にとっては過去のツケを支払わせられるという点で、世代間の対立の種になる、といった理解が一般的だが、小野氏はそれを否定し、国債というものは、国民経済の中で右から左へとお金を移動させるだけで、国民経済全体にとってはプラスにもマイナスにもならない、また将来世代へのツケまわしも、必ずしも起きるとは限らない、と主張する。こうした主張は従来の経済理論とはあまりにもかけ離れているので、筆者の友人で経済学を研究している男などは、奇矯な理屈だと批判している。

氏はまず、国債は国にとっての借金なのか、という点について議論する。国債を発行することで政府は、国際証券と引き換えに購入者から資金を引き揚げるが、その資金は政府が自分のために使うのではなく、公共事業や減税の資金として使う。つまり国民のために使う。ということは、国債というものは、国債購入者からそれ以外の人への資金の移動を意味しているにすぎず、いってみれば分配の問題だということがわかる。国債が国の借金だという人は、国と政府を混同しているのだ。たしかに国債は政府による借金であるが、それは国全体のために使われるわけだから、国全体としては借金とは言えない。国の成員の間で資金が移動しただけのことだ、と氏は言う。

では国民ではなく外国人が国債を買う場合はどうか。その場合には、外国人に対して国として借金をしたことになるのではないか、という疑問に対しても、氏は違うという。たとえ外国人であっても、その効果は日本人の場合と全く異ならない。というのは、新規発行の場合であれ、日本人から間接的に購入する場合であれ、其の外国人は日本に対して金を支払ったうえで、国債の証書をうけとるのであるから、国全体としての日本にとっては、一方的な借金ということにはならない。

しかし、国債が日本の経済にとってマイナスの作用が全くないかといえば、そういうわけにもいかない。それは完全雇用が実現しているような好況期の場合である。そうした時期に国債を発行して公共投資をすることは、民間で使えたはずの資源を公共事業が横取することを意味する。つまりクラウディング・アウトといわれる現象が生じるわけだ。したがって好況期には国債を発行すべきではなく、むしろ不況期にたまった国債残高を減らす政策をとる必要がある、と氏はいう。

次に将来世代の負担という点については、国債発行の時期によって事情が変化し、必ずしもそうはいえない、と氏はいう。

まず国債償還する時点を考えてみると、その時点で政府は償還財源を確保するために増税しなければならないだろう。しかしその場合には増税によって資金が右から左へと移動するだけだから、国全体(政府ではない)として負担が増えるわけではない、というわけである。

これはあくまでも、国債発行時点では経済が不況で、資源が遊んでいる状態で言えることである。こうした状態では現役世代が大目に消費しても、生産余力の有効活用で賄うことができるから、将来世代の分まで食いつぶすことにはならない。逆に完全雇用下のもとで国債を発行すれば、(無駄な公共事業によって)それだけ資源を無駄にすることとなるので、将来世代の分まで食いつぶすこととなる。

逆に言えば、現役世代が国債発行によって追加的に受け取った購買力は、生産余力が存在している間に消費されなければ、将来世代の負担になってしまうということである。この場合には、国債が将来世代の実質的な負担となってのしかかるわけである。

氏は言う、「こうしてみると、将来世代の負担とは・・・現役世代の購買力増大が、完全雇用期に実行されることによって発生するコストである。しかし、不況期の財政出動の目的は、まさに現在世代の購買意欲を好況期にではなく、不況期に増加させることである。現役世代の購買力増大分の支出が不況期に行われるかぎり、将来世代に負担なく余剰資源を有効利用できるのである」

つまり氏は、国債というものは基本的には増税と同じで、国民の階層間の資金の移動としてとらえているわけだ。増税と異なるのは、時間と云う要素がからんでくるという点だけで、それも根本的な問題とはならない。氏はそう考えているようだ。

しかし筆者のような経済学音痴でも、氏の言うところを鵜呑みにするには、なにかおかしいぞというものを感じる。氏のいうところを鵜呑みにすれば、国債何するものぞ、多少残高が増えたからといって余計な心配をする必要はない、ということになるのだろうが、果してそれでよいのか。

決してそうはいえないというのが、最近の金融危機が教えているところだろう。国債残高が野放図に増えることは、場合によっては国庫の破たんにつながりかねない事態をもたらす、それが金融危機の教訓だ。

つまるところ、国債は一国の経済の範囲で考えるべきローカルな問題ではなく、国際的なレベルで、しかもマネーゲームの主要な要素になっているという点を考慮にいれて考えなければならない。そのことを抜きにして国債を論じると、とんでもないことになりかねない。

というのも、いまでこそ日本の国債は100パーセント消化できているし、償還も順調にいっている。今の時点で日本の国債が危ないなどといった声はどこからも聞こえてはこない。しかしこの先永久にそうでありうるかは、疑問の多いところだ。何故かと云えば、国債と云うものはいまや投機の対象にもなってきており、投機家の思惑によって大きく影響されるという側面を強めてきている。その影響がマイナスの方向に働くと、南欧諸国のソブリン危機のような現象が生じてくる、ということもありうるからだ。

国債は両義的な性格を持った生き物のような存在だということを、やはり忘れてはならないだろう。


関連記事:
小野善康「成熟社会の経済学」
小野善康「不況のメカニズム」
供給側の経済学と需要側の経済学:小野善康「景気と経済政策」





≪ 供給側の経済学と需要側の経済学:小野善康「景気と経済政策」 | 経済学と世界経済 | 小野善康「景気と国際金融」 ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/3902

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

この記事について

このページは、が2012年3月23日 19:31に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「カッコウ(Le Coucou):ロベール・デスノス」です。

次のブログ記事は「1960年代のマッド・メン(Mad Men goes back to the Office)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。