有楽町で飲みましょう

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羽田のアナゴ仲間と有楽町で飲んだ。いつものとおりM女史からメールが来て、有楽町で飲みましょうと誘われたのだ。場所は高速道路の高架下にある「みちのく」という店。このあたりで余生を過ごしているK氏の紹介だといっていたが、筆者には若い頃からなじみのある店だ。そこで懐かしい思いにひたりながら、駆けつけた次第。

有楽町の駅で降りると小雨が降っている。そんなに強い雨脚ではないが傘をささずにはいられない。そういえばこのメンバーと会うときにはいつも雨が降っているような気がする、ふとそんなことを思う。筆者は晴男を自認するほどで、旅行するときにはだいたい、晴れることになっている。その日の朝の天気予報で、今日は一日雨ですとあっても、雨になったことがない。ところがこの連中と飲むときに限ってそうではなくなる。どうやらメンバーの中に雨と縁の深いものがあって、それが筆者よりも強いオーラを発しているのかもしれない。

席に通されるとM女史をはじめ、K氏、F氏、S氏の4人がすでに来ていた。アナゴの主人J氏は仕事の都合で来られないという。ともあれ早速乾杯をした。

まず互いの近況を語り合う。S氏は昨年交通事故にあった。自転車で横断歩道を渡ろうとしたとき、突っ込んできた車にはねられたという。幸い命をはじめ重大なものは失わずにすんだとのこと。F氏もオートバイで山野を駆け回っているうち、トラックと正面衝突して足を骨折した。だが奇跡的にその程度ですんで、命には別状はなかった。もっともオートバイはお釈迦になったそうだ。M女史はジョギング中に転倒して左ひじに擦過傷をこうむり、そのあとがまだあざになって残っている。

K氏はつい最近エジプトに旅行したそうだ。その折の見聞を楽しそうに話してくれた。筆者についていえば、人に報告するような変わったことは何も起こらない。

ついでいつものとおりとりとめのない話に賑わったが、そのうち話の雰囲気がすこし変わってきた。どうもF氏が最近娘さんをなくしたそうなのだ。

F氏の娘さんが難病に苦しんでいたことは以前から知っていた。彼は家族のことを多く語ることはなかったから、詳細はわからなかったが、やはり相当深刻だったのだ。24歳の若さでついになくなったのだそうだ。

みなどう受け止めていいかわからずに、しばらく声を呑んだが、F氏のほうでは座をしらけさせぬようにと、呑気を装ってしゃべり続ける。それに応える形で、われわれも言葉をつなぐことができた。

深い悲しみは、他人が同情しようとしても同情しきれるものではない。同情できるのは自分もまたその悲しみを身をもって共有している人だけだ。だからこういうときには、うわべの同情はかえって悲しんでいる人に無礼に働くことがある。

それでもやはりF氏はいう、死は誰にでも平等に訪れるものだから、それを拒絶することはできない、だけれども死の訪れ方は人によってさまざまだ、自分の娘に訪れた死がどんな死だったのか、自分はいまだに整理しきれない、自分はなぜか自分の娘の死に、死の訪れ方の不平等さを感じると。

氏のいうことは我々にとっても了解できないことではない。たしかに自分の親の死と自分の子どもの死とでは、受け止め方に相違があるのは当然だ。自分の親の死はある意味で自然の摂理に従っている、ところが自分の子どもの死を迎えることは、多くの親にとっては、自然の摂理に反したことと受け止められるほかないだろう。だからそこに運命の不平等を感じ、それを呪いたくなる気持ちはわからないでもない。

氏はこの悲しみへの慰謝を宗教的な感情の中に求めようとしているようだ。それはよいことかもしれない。人は死んだからといって、宇宙からまったくいなくなってしまうと考えるのは、あるいは間違っているかもしれないのだ。宮沢賢治などは、ひとは現世で死んだあとも、現世とは次元を異にした、もっと大きな枠組みの世界で生き続けると考えていた。F氏は、それは仏教で言う六道輪廻のことかといい、自分もできたらそう思いたいといった。

そこで筆者はいった。さよう、ひとの霊魂はいつまでもどこかで生き続けているのだよ、人間がこの世で生を受けるというのは、いわば仮の姿としてにすぎない。永遠の霊魂が人間の姿を借りてこの世で生きているだけだ、その仮の姿から開放されたあとでも、霊魂は違う姿を借りてほかの次元で生き続ける。このように霊魂が不滅だと考えれば、娘の死も無駄なことではなくなる。

だから何も思い惑うことはない、一番慰められるのは、娘の霊魂が星となって天空のどこかで光り続けていると考えることだ。この世に取り残されたものはいつでも、夜空を見上げれば、星となった愛しいものの魂と語らいあうことができる。

筆者はちょっと言い過ぎたかもしれない。とまれ久しぶりに会った友人たちと、ちょっぴり豊かな時間を共有できたような気がする。





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このページは、が2010年2月11日 18:08に書いたブログ記事です。

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