熙寧元年(1066)父蘇洵の喪が明けると、蘇軾は亡妻王弗の従妹閏之を娶り、十二月には家族および弟の蘇轍らとともに都の開封に向かった。そんな蘇軾を待っていたのは、新旧両法の抗争であった。蘇軾は王安石と意見が衝突し、中央にいては身の危険が及ぶことを恐れ、地方転出を自ら申し出た。
こうして熙寧四年(1071)蘇軾は杭州通判(副知事格)に命じられた。その後密州、徐州、湖州を転々とし、湖州時代の元豊二年(1079)権力の迫害を受けて御史台の獄に投ぜらるるに及んだのである。
さて、杭州通判の辞令を拝して、杭州へ向かうべく都を出発した蘇軾は、陳州(河南省)に立ち寄った。そこでは弟の蘇轍が知事張方平に迎えられて州の学校の教授をしていたのである。その時の蘇轍を歌った詩が、先述した「子由に戯る」である。
蘇轍は兄を頴州まで送り、そこで兄弟の師欧陽脩を訪問した。師弟は頴州の西湖に船を浮かべ、過去を振り返り未来を語った。蘇軾は菊の花をとって舞を舞い、先生の長寿を祈り、次のように詠じた。
城上烏棲暮靄生 城上烏棲んで暮靄生じ
銀江画燭照湖明 銀江画燭湖を照らして明らかなり
潁州を去るに当たっては、蘇軾は弟との別れを悲しんで、詩を贈った。
蘇軾の五言詩「潁州にて初めて子由と別る二首」(壺齋散人注)
近別不改容 近き別れは容を改めず
遠別涕沾胸 遠き別れは涕胸を沾す
咫尺不相見 咫尺にして相ひ見ざるは
實與千裏同 實は千裏と同じ
人生無離別 人生離別無くんば
誰知恩愛重 誰か恩愛の重さを知らん
別れても近くにいれば顔色も変らぬが、遠い別れとなれば涙が出てくるものだ、だが近くにいても互いに会うことがなければ、千里の別れと異なるところはない、人生というものは別れがなければ、恩愛の重さを知ることもないだろう
始我來宛丘 始めて我宛丘に來りしとき
牽衣舞兒童 衣を牽きて兒童舞ふ
便知有此恨 便ち此の恨みの有るを知り
留我過秋風 我を留めて秋風を過ごさしむ
秋風亦已過 秋風亦已に過ぎ
別恨終無窮 別れの恨みは終に窮り無し
問我何年歸 我に問ふ何れの年にか歸ると
我言歳在東 我言ふ歳の東に在るときと
始めて汝(宛丘)のもとへ来たとき、子どもたちは我が衣を引いて踊ったものだ、だがそのうち別れなければならぬのを思って、わたしを秋が過ぎるまでとどめようとした
秋風が過ぎると、別れの予感で心が痛むのだろうか、何時また会えるかとしきりに問う、そこで自分は三年後には合えるだろうと答えてやる
離合既循環 離合既に循環し
憂喜互相攻 憂喜互ひに相ひ攻む
悟此長太息 此を悟りて長太息す
我生如飛蓬 我が生飛蓬の如くなりと
多憂發早白 憂ひ多ければ早白を發す
不見六一翁 六一翁を見ざるや
離合を重ねるたびに、憂いと喜びがこもごも来る、この道理を思うとため息が出る、我が人生は飛蓬のようだと
憂いが多ければ白髪頭になってしまうだろう、あの欧陽脩先生を見るがよい
関連サイト: 漢詩と中国文化
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