蘇軾の投獄

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元豊二年(1079)蘇軾は徐州の知事から湖州の知事に転任した。その際蘇軾は皇帝に奉る感謝状「湖州謝表」を作った。その謝表の中で、蘇軾は新法派の役人たちを批判した。これが批判の対象とされた役人たちを怒らせ、蘇軾を弾劾させたのだった。

蘇軾は徐州の知事時代に、役人としても詩人としても赫々たる名声を樹立して、旧法派のチャンピオンのような立場に持ち上げられていた。そんな実力者が、新法派の連中を嘲笑う詩を書いて、当時影響力をもっていた新聞「邸報」に載せたわけだから、新法派の役人たちが怒るのも、もっともだった。

それに、新法派は王安石が官職を去った後求心力を欠いていた。そんな状況の中で、皇帝の覚えもよいとされた蘇軾が権力の中枢に座るようなことになれば、自分たちの政治的な立場が一挙に危うくなるかもしれない。その前に、蘇軾を何としてでも弾劾して、失脚させなければならない、こんな思惑が働いたのだ。

元豊二年の六月、何正臣という御史が、蘇軾の謝表のうちから4つの文句を取り上げ、それらが朝廷の名誉を傷つけているとして、彼を告発した。また同じく御史であった舒壇も、蘇軾の詩から青苗法を揶揄した詩を取り上げて、蘇軾の尊大不遜な所以と皇帝に対する不敬を告発した。

こうしたことの結果、蘇軾は7月28日に逮捕され、8月18日に御史台の獄に投ぜられた。これ以降過酷な取り調べが数週間続く。

その取調べの過程を、蘇軾は「東坡烏台詩案」という書物の中で克明に記した。それは裁判の過程を非常に客観的な視点から記録したもので、少なくとも被告人としての蘇軾の、つまらぬ言い訳などではない。

それによれば蘇軾は取り調べが始まってすぐに、自分の過ちを率直に認めたようだ。過ちとは、時の政府の高官をからかったことであり、士大夫としてそのようなことをするというのは、みっともないことであった認めることなのであったと。

蘇軾はどのようにして時の政府を批判し、からかったのか。蘇軾はたとえば時の政府の高官たちを、ガアガアなく蛙、ジイジイなくセミ、頭が空っぽの鶏に譬えた。これは政府の高官に対する許しがたい攻撃であることは無論、朝廷への反逆でもある。だから蘇軾には、死刑にするほかふさわしい処分はない、こう御史台は皇帝に対して上奏した。

だが皇帝は蘇軾を死刑にすることはなかった。皇帝は蘇軾に私心がないことを評価していたのだ。

結局、蘇軾は4か月余りに及ぶ拘禁の末、この年の大晦日に釈放されて出獄した。出獄後の蘇軾を待っていたのは、黄州段錬副使という職であったが、それは体の良い名称で、実際は流刑のような境遇だった。

生涯鼻っ柱の強かった蘇軾は、この出所に及んでも、意気軒昂たる姿勢を崩さなかった。彼が出所に臨んで作ったとされる二篇の詩が、そのことを物語っている。そのうちの一つを紹介しておこう。

  平生文字為吾累  平生より文字吾が累を為す
  此去聲名不厭低  此れ聲名を去ること低きを厭はず
  塞上縱歸他日馬  塞上縱に歸らん他日の馬
  城東不鬥少年鶏  城東少年と鶏を鬥はざらん

日頃筆禍を以て虐げられてきた自分だ、評判が落ちることなど気にはしない、釈放された今は塞翁の馬のような気分だ、もう餓鬼どもと闘鶏に興じるようなまねはやめよう


この詩を書きあげて筆をおいたときに、蘇軾は「本当に自分は性懲りのない人間だ」とつぶやいたそうである。


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このページは、が2011年8月 3日 19:05に書いたブログ記事です。

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