東京電力による原発事故の賠償を支援する法律「原子力損害賠償支援機構法」が成立した。最終的な賠償責任は東電にあるとしながらも、国にも責任の一端を認め、損害賠償の迅速かつ適切な実施を進めようとするものだ。そのため第三者機関「原子力損害賠償支援機構」を設立し、被害者への損害賠償を肩代わりすることで、迅速な賠償を進める、これが基本的なスキームだ。
被害者への迅速な賠償という視点からは、遅きに失したといえなくはないが、賠償に向かって一歩前進したという意味では、概ね好意的に受け取られているのではないか。それでも、全く疑問がない、というわけではない。今日の大新聞の社説を読むと、そうした疑問がいくつか提示されていて、筆者は興味深く読んだ。
朝日の社説は東電の責任が不明確になり、うやむやにされてしまうのではないかとの危惧を表明している。
「原発被災者にしわ寄せがいかないよう、最終的に国が賠償の責任を負うのはやむを得ない。ただ、それは東電を法的整理し、徹底的なリストラや減資、金融機関の債権放棄などで利害関係者の責任を最大限追及してからの話だ。」これが朝日の基本的な見解で、東電の責任を徹底的に追及すべきだというものだ。
これに対して読売は、朝日とは逆に国の責任がまだまだ足りないという立場だ。
「支援法の目的は着実な被害救済と、電力の安定供給にある。国が賠償責任を負う法的な裏付けもないまま、東電を破綻させるべきではない。」つまり国による賠償の裏づけがはっきりしないままに、東電を破綻させてはもとも子もないだろうという理屈だ。
というのも、この法律は国による賠償の一時立替を認めているだけであって、東電の能力を超えて賠償規模が膨らんだ場合、どうするかという重大な問題が先送りされている。東電が賠償不能に陥る可能性は非常に大きいのであるから、国による責任の範囲をもっと拡大しない限りは、被害が十分に救済される可能性も低くなる、というわけだ。
こうした議論を読むと誰もが、この問題の基本的な考え方はどうあるべきか、という立脚点に連れ戻されてしまう。問題の基本は東電の責任をどう考えるかということであり、また被害の救済はどのようになされるべきかということであろう。
責任論をあまりに重く見て、東電の破綻まで展望するような議論では、被害者の救済が十分に行えないかもしれない。かといって、あまりに安易に国の介入を認めるようでは、東電の責任論が曖昧になる危険がある。このディレンマともいえる事態をめぐって、どこに帰着点を見出すか、これは論理必然性の問題というよりは、きわめて政治的な決断をめぐる問題だ。
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