改めて問われた検察の体質:小沢裁判無罪判決

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民主党元代表小沢一郎氏の政治資金管理団体陸山会の政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑にかかわる裁判の結果が無罪と出た。この裁判は、一方で検察側による、事実と反する不当な調書作成が明るみに出ていたこと、また、2,009年5月に導入された、検察審査会による強制起訴の最初のケースということで、大いに国民の注目を浴びていたものだ。

検察側の不当な調書作成は、村木裁判における、検察官によるデータねつ造問題とならんで、現在の検察が抱える病理的な体質を象徴するものだと批判されてきた。今回の判決は、検察官が事実に反する内容の調査報告書を作成し、それでもって検察審査会の判断を誤らせようとしたことは、許されないとして、検察当局に対して、十分調査して適切に対応するように求めたが、検察審査会の手続き自体は有効だったと判断した。

小沢氏の弁護側は、検察審査会自体が、検察による違法な誘導に従っていた事実を重く見て、起訴議決は無効だとして、控訴の棄却を求めていたわけだが、裁判所は、検察審査会の運営そのものには違法性はなかったとして、控訴の棄却ではなく、無罪の判決を下したわけだろう。

この判決によって、検察の体質が厳しく批判され、透明性の高い捜査に向けた国民世論の高まりが予想される一方、検察審査会のあり方についても、今後強い疑問が出されると予想される。

検察審査会の制度そのものは以前からあったわけで、検察の処分に対して審査会による一定の判断がなされた例はあったのであるが、検察審査会が、検察の不起訴処分を否定して、強制起訴できるようになったのは、2009年5月以降のことである。裁判員制度の導入とともに、司法への国民参加を拡充する制度改革の目玉として導入されたものだ。

この制度による強制起訴は、今回の小澤裁判を含めてこれまでに2例あり、いずれも無罪となった。検察当局自身が、公判の維持が難しいと判断して、起訴を断念したケースであるから、証拠の収集はじめ、有罪を立証することは、一般の刑事裁判と比較して、相当に難しいことは当然ありうるわけで、無罪のケースが多くなるだろうということは、以前から予想されていた。

疑わしきは被告の利益に、という近代刑事裁判の原則からして、そうなることは、ある意味で当然の事態であるともいえる。

今回の判決を踏まえて、検察審査会の能力の限界を根拠にして、そもそも検察審査会に強制起訴の権限を与えておくのがいいことなのかどうか、疑問にする声も高まるだろう。

たしかに、検察審査会の委員は、裁判員の場合と同じく、国民の間から無作為で選ばれた一般のひとであるから、法律の知識も乏しいし、また短い時間の中で、少ない証拠を基に、起訴すべきかどうか判断させるのは無理だという意見も、わからないわけではない。

しかし、司法の場に一般国民がかかわるのは、民主主義の成熟という意味でも、また司法の判断がよりコモンセンスに近いところで行われるという点でも、大事にしていきたい制度である。一回の失敗をもとに、それも検察による誤ったガイダンスによって、結果的に無実な人を起訴したということを根拠にして、検察審査会による強制起訴は廃止すべきだと結論付けるのは早い。

むしろ、今回の事例が際立たせていることは、検察や裁判所など法律の専門家が、どのように検察審査員や裁判員たちを適切にサポートしていくかということだ。(写真は小沢氏:ロイターから)





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このページは、が2012年4月26日 19:05に書いたブログ記事です。

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