山上憶良:横死者を悼む歌

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万葉集巻五に、「筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌」という、これも一風変わった歌が載せられている。序にあるとおり、相撲使という官人に従者として従い、京都に向かう途中死んだ若者がいた。その若者の志を哀れに感じた憶良が、彼に替って、その志を述べたという歌である。

歌われている若者は、君という尊称がついているから、おそらくは貧しい農民ではなく、地方の豪族に属していたのであろう。このような階層の者も、朝廷に対して貢物をするために、京へ向かって駆り出されたと思える。この場合には、相撲使といっているから、力士たちを伴っての旅だったのかもしれない。

若者はその途上で倒れた。そしていざ死なんとするときにもらした無念の志を、同行していたものが憶良に伝えた。憶良は、いまだ十八歳に過ぎないその若者の志に感じ入って、この歌を作ったのであろう。

山上憶良には、これまでも見てきたように、他者になり変わって、その気持ちを歌うという、独特の性向がある。この場合には、貢物を納めるために朝廷へと向かう若者の、道半ばにして倒れた無念さを、若者に代わって歌った。

そこには、朝廷を頂点にした国の姿に忠実な、若者の姿勢を広く人々に知らしめようという、国守としての打算があったのかもしれない。

だが、一篇を虚心に読めば、民衆の取るに足らぬ一人物の死に、憶良らしい同情の念が色濃く現れてもいる。

論者の中には、この歌を以て、憶良の民衆に歩み寄る姿勢を読み取る者もいる。

―筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為りて其の志を述ぶる歌に敬みて和ふるうた六首、また序
大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年十八歳。天平三年六月の十七日を以て、相撲使某の国の司官位姓名の従人と為り、京都に参向る。天為るかも不幸、路に在りて疾を獲、即ち安藝国佐伯郡高庭の駅家にて、身故(みまか)りぬ。臨終らむとする時、長歎息きて曰く、「伝へ聞く、仮合の身滅び易く、泡沫の命駐め難し。所以に千聖已く去り、百賢留まらず。况乎(まして)凡愚の微しき者、何ぞも能く逃れ避らむ。但我が老親、並(みな)菴室に在りて、我を侍つこと日を過ぐし、自ら心を傷む恨み有らむ。我を望むこと時を違へり。必ず明を喪ふ泣を致さむ。哀しき哉我が父、痛き哉我が母。一身死に向かふ途を患へず、唯二親在生の苦を悲しむ。今日長く別れ、何れの世かも観ることを得む」。乃ち歌六首を作みて死(みまか)りぬ。其の歌に曰く、
  打日さす 宮へ上ると たらちしの 母が手離れ
  常知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山 越えて過ぎゆき
  いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど
  おのが身し 労(いた)はしければ 玉ほこの 道の隈廻(くまみ)に
  草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏して
  思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし
  家にあらば 母とり見まし 世間(よのなか)は かくのみならし
  犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ(886)
短歌
  たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか吾(あ)が別るらむ(887)
  常知らぬ道の長手を暗々といかにか行かむ糧(かりて)は無しに(888)
  家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも(889)
  出でてゆきし日を数へつつ今日今日と吾(あ)を待たすらむ父母らはも(890)
  一世には二遍(ふたたび)見えぬ父母を置きてや長く吾(あ)が別れなむ(891)

憶良の言い分は、ほぼ序文の中に言い尽くされている。「仮合の身滅び易く、泡沫の命駐め難し。所以に千聖已く去り、百賢留まらず。况乎凡愚の微しき者、何ぞも能く逃れ避らむ」と、死せんとするにあたっての諦念を、若者の言葉として述べさせつつ、「哀しき哉我が父、痛き哉我が母」と、自分を待つ両親への心遣いについて述べる。この辺は、若者の気持ちを忖度して漏れのない表現である。

長歌は、これに比べやや冗漫で、緊張のない表現だ。最後の部分で、「犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ」と、叫ばしていることによって、一首がかろうじてしまりを見せている。古来、犬のように死ぬとは、みじめな死に方を象徴するものだった。

長歌に比べると、短歌のほうはいづれも、父母を思いやる若者の気持ちが素直に解釈されて、しっとりとした感情を伝えている。

万葉集巻十六には、民衆の死をテーマにした一群の歌が載せられている。「筑前国志賀の白水郎が歌十首」である。これらの歌については議論があって、億良の作ではないのではないかとする見解もあるが、大方は、憶良の作であろうと一致している。

序にあるとおり、対馬へ糧食を送るよう命じられた津麻呂という老人が、自らが老いに耐えず、その任を荒雄というものに頼んだ。荒雄は快く引き受けて、対馬へ船を出したが、途中嵐にあって難破し、ついに死んでしまった。その荒雄の、残された妻子の気持ちに成り代わって、憶良が歌ったのだといっている。

他人に成り代わって歌を歌う憶良の性癖からして、十分にありうることだろう。

―筑前国志賀の白水郎が歌十首
  おほきみの遣はさなくに情進(さかしら)に行きし荒雄ら沖に袖振る(3860)
  荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず(3861)
  志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ(3862)
  荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しからずや(3863)
  官(つかさ)こそ差しても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る(3864)
  荒雄らは妻子(めこ)の業をば思はずろ年の八年を待てど来まさず(3865)
  沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ(3866)
  沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻(た)みて榜ぎ来と聞こえ来ぬかも(3867)
  沖行くや赤ら小船に苞(つと)遣らばけだし人見て解き開け見むかも(3868)
  大船に小船引き添へ潜(かづ)くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(3869)
右、神亀の年中、太宰府、筑前国宗像郡の百姓、宗形部津麻呂を差して、對馬の粮(かて)を送る舶の柁師(かぢとり)に充(あ)つ。時に津麻呂、滓屋(かすや)郡志賀村の白水郎、荒雄が許に詣(ゆ)きて語りけらく、「僕(あれ)小事(こと)あり。もし許さじか」。荒雄答へけらく、「僕郡(こほり)異れども、船に同(あひの)ること日久し。志兄弟より篤し。殉死(ともにし)ぬとも、なぞも辞(いな)まむ」。津麻呂が曰く、「府官僕を差して對馬の粮(かて)を送る舶の柁師(かぢとり)に充(あ)つ。容歯(よはひ)衰老(おとろ)へ海つ路(ぢ)に堪へず。故(かれ)来たりて祇候(さもら)ふ。願はくは相替りてよ」。ここに荒雄、許諾(うべな)ひて遂に彼(そ)の事に従ひ、肥前国松浦県美弥良久(みみらく)の埼より発舶(ふなだち)して、直に對馬を射して海を渡る。すなはち天(そら)暗冥(くらが)り、暴風雨に交じり、竟に順風無くして、海中に沈没(しづ)みき。因斯(かれ)妻子等、特慕(しぬ)ひかねて此の謌を裁作(よ)めり。或ひは、筑前国守山上憶良臣、妻子の傷みを悲感(かなし)み、志を述べて此の歌を作めりといへり。

十首の短歌には、いづれも夫を失った妻の心がよく現れている。一首目にある、「おほきみの遣はさなくに情進に行きし荒雄ら」という表現は、他人のために働いて、その結果被災した夫の、無念さとけなげさがこもごも表現されている。国守ならではの発想とも言えるのではないか。

二首目、三首目には、夫を慕う妻の気持ちが素直に現れていて、すっきりとしている。三首目以降も、それぞれに味わうべきものがあって、この一群の歌は、なかなか優れた感情表現の歌といえる。

横死した若者の気持ちといい、夫を失った妻の気持ちといい、あるいは絶望し、あるいは愛し続ける、そんな人々に、そっと寄り添うように感情移入する、憶良という歌人は、不思議な感性をそなえた人だったことが伺われる。


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    このページは、が2007年2月28日 20:18に書いたブログ記事です。

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