陶淵明「飲酒二十首」から其一「衰榮無定在」を読む
漢詩と中国文化
祭文とは儀式にあたって読み上げられる文章である。原則として散文でつづられた。雨乞いなどの際に作られることもあるが、多くは葬儀にあたって読み上げられたようである。
陶淵明は晩年、自分自身のために挽歌を作った。擬挽歌詩三首がそれである。何のために、自分自身の死を悼む詩をつくったのか。単なる遊び心からか、それとも陶淵明一流の空想が働いたか。解釈は様々になされうるが、中国史上にも例を見ないユニークな思いつきであることに違いはなかろう。
陶淵明は自分自身を形影神、つまり身体と影と精神の三つに分解し、それぞれに話をさせるという珍しい手法を用いて詩を作った。「形影神」がそれである。
閑情賦は、陶淵明の数ある作品の中でも、古来議論の多かったものだ。陶淵明といえば反俗を旨とし、田園に生きることを謳歌した詩人というイメージが確立されていたから、人間の情念を怪しく描いたエロティシズム溢れるこの作品は、淵明にまとわるイメージから著しく外れていると受け取られてきたのである。
陶淵明の作品「桃花源記」は中国の古代の詩人が描いたユートピア物語として、千数百年の長きにわたって人口に膾炙してきた。日本人にとっても親しみ深い作品である。そこに描かれた「桃源郷」は、理想の安楽世界を意味する東洋流の表現として、いまや世界的な規模で定着しているといえる。
王弘の部下に龐參軍という者があった。陶淵明は王弘を通じてこの人物とも親しくなったようだが、それは龐參軍が高潔の気風を持っていたからであろう。この人物が詩をたしなんだらしいことは、陶淵明の別の文から伺われる。
義煕十四年(418)陶淵明が54歳の年、王弘が江州刺史として赴任してきた。王弘の王氏は山東朗邪の出身であり、当時の晋にあっては最高の家柄を誇っていた。その王弘がすでに隠士として名をあげつつあった陶淵明を尊重し、何かと淵明の世話を焼いた。陶淵明は著作佐朗に推挙されて断っているが、これも王弘の推薦によったものだといわれている。
義煕十二年(416)、劉裕は北伐を行い、翌年には長安に攻め上って後秦を滅ぼした。この知らせは、久しく中原の地を異民族に奪われていた漢人たちをいたく感激させた。陶淵明もその一人であった。
陶淵明は、田園の一角に隠棲したとはいえ、世間との交渉を全く断ったわけではなかった。時には、役人たちとも交わり、詩のやりとりなどをしている。
庚戌歳は義煕六年(410)、陶淵明46歳。田舎に閑居して、農耕生活を営み、長沮傑溺の古の聖人に思いをはせる。淵明の理想とする生き方を歌った詩である。
陶淵明は、義煕四年(408)火事に遭い、帰去来の詩に歌ったあの園田の居を消失した。陶淵明はそこに家を再建する代わりに、翌年、南村というところに移居した。場所は不明であるが、柴桑からはそう遠くはなかったのではないか。
帰田園居五首の後半三首を取り上げる。第三首目は、第一首と並んで有名になった歌である。そこには、田園において日々耕作に励む喜びが描かれている。
帰園田居は歸去來兮辭の姉妹作のような作品である。彭沢県令を辞して、あらゆる官職をやめ、田園に生きることを決意した陶淵明は、その喜びを歸去來兮辭に歌い、なおかつその延長上で、帰園田居五首を作った。
帰去来兮辞の本文は四段からなる。一段目は、官を辞して家に帰る決意を述べ、はやる心で帰路に赴く様を描く。彭沢から故郷の柴桑までは凡そ百里、陶淵明は長江を船で遡った。なお、「帰去来兮」を「かへりなんいざ」と訓読したのは菅原道真である。以後日本の訓読の中で定着した。
陶淵明は、29歳の頃江州祭酒となったのを始めにして、断続的にいくつかの職についているが、義煕元年(405)41歳のとき、彭沢県令になったのを最後に、公職を退いて二度と仕官することはなかった。
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