漢詩と中国文化


元興三年(404)、陶淵明は母の喪があけたのを契機に再び仕官し、劉裕の幕下に入った。その年の三月、劉裕は桓玄を破って建康を回復し、鎮軍将軍となっていたのである。

連雨獨飮は元興3年(404)の作。陶淵明が母親の喪に服していた年で、同じ頃の作品に栄木や停雲などがある。

元興三年歳次甲辰(404)、陶淵明は不惑の年を迎えた。母親の喪が明けたこの年、東晋の政情は激変する。国を乗っ取って新しい王朝を開いていた桓玄が劉裕によって打倒され、5月には追い詰められて殺されるのである。

癸卯歳は元興二年(403)陶淵明39歳の年、母の喪に服してから3年目にあたる。前年東晋の政権を崩壊せしめて実権を握った桓玄は、この年の十二月東晋の安帝を廃して自ら皇帝を名乗り、国号を楚と称した。このような激動の時期にあって、陶淵明は田園に閉居することで、身辺に災いの及ぶのを避けることが出来た。

隆安五年(401)11月、陶淵明は母が死んだために服喪生活に入った。当時、親が死ぬと三年の間、公職を辞して喪に服すのが原則であった。陶淵明は図らずして、田園での静かな生活を楽しむことができるようになったのである。

辛丑の歳といえば隆安五年(401)、陶淵明37歳。前年には桓玄に仕え、その任務を帯びて都に赴いたりしている。この年の前半には休暇をとって家でくつろいでいたようである。この詩は、休暇を終えて江陵へ赴く途上の作。(赴假は休暇を終えて帰任すること)当時江陵には、荊州刺史桓玄の本拠があった。

陶淵明が劉牢之に仕えたとする説には異論があるが、35歳頃に、桓玄に仕えた事については、歴史的な事実として、ほぼ異論がない。

宋書隠逸伝の記事によれば、陶淵明が始めて職らしい職についたのは29歳のとき、江州祭酒というポストであった。地方教育を司る職だったらしい。だがこれはすぐに辞め、次に提供された州主簿というポストも断った。

陶淵明は、29歳にして長男の儼が生まれたとき、「命子」と題した詩一篇を作り、始めて子を得た喜びと、子の将来への期待を歌った。その父親としての情は、時空を超えて人々の胸琴に響くものがあった。

陶淵明の詩「命子」(子に名づく)は、長男の儼が生まれたときに、その誕生を祝福するとともに、改めて祖先に思いをいたして詠んだ詩である。時に陶淵明29歳であった。この詩には、陶淵明の祖先、とりわけ曽祖父陶侃に対する尊敬の念が現れており、陶淵明の家族観を知る上で貴重である。

陶淵明の小品「五柳先生伝」は、長らく陶淵明の自叙伝であると信じられてきた。これには、宋書隠逸伝の次のような記述が影響したといわれる。「潛少くして高趣あり,嘗て《五柳先生傳》を著し、以て自ら況す」

宋書は南斉の沈約が著した六朝時代宋の正史である。斉の武帝に命ぜられて編纂を開始し、完成したのは梁の時代に入ってから、本紀10巻、列伝60巻、志30巻の計100巻からなる。そのうち列伝第53隠逸伝の部に、陶潜(陶淵明)の記事がある。

陶淵明は、南朝晋の興寧三年(365)に生まれ、宋の元嘉四年(427)に死んだ。その生きた時代は、南北朝時代の初期、東晋時代の後半から宋への移り変わりの時期である。この頃中国大陸は、南北に分離し、北には五胡十六国といわれるような異民族国家が興隆しては消え、南には漢民族による国家が興った。隋の煬帝が再び中国大陸を統一する六世紀の末ごろまで、中国南部には五つの王朝が交代するが、これと三国時代の呉を併せて六朝時代とも呼ぶ。

秋瑾女史が日本で撮ったという肖像写真が残されている。和服姿に身を包み、きりりとした顔つきで正面をにらんだ彼女の手には短剣が握られている。秦の時代の刺客荊軻を愛し、自らも剣をとって胡(清朝)を倒さんと欲した女史には最も相応しいポーズといえる。

武田泰淳の小説「秋風秋雨人を愁殺す」は、その副題に「秋瑾女史伝」とあるように、清末の女性革命家秋瑾女史について、ドキュメンタリー風に描いた作品である。秋瑾女史を始め清末の革命運動家について殆ど知るところのなかった日本人は、この作品を通じて些かのことを知るに至った。

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