シェイクスピア


「ジュリアス・シーザー」という劇は、シーザーに対する疑問の言葉で始まる。シーザーは言うまでもなくローマの生んだ最大の英雄であり、ローマが民主制から帝政へと転換したきっかけを作った歴史上の大人物だ。その英雄の中の英雄とでもいうべきシーザーを描いたこの作品が、シーザーに対する疑問から始まるというのは、非常に感慨深いことといえる。

ジュリアス・シーザー Julius Caesarは、シェイクスピアの作品の中でも、エポックメーキングな位置を占めるものだといえる。

シェイクスピアは劇作品の中にたびたび韻文の詩を挿入しているが、なかでも「お気に召すまま」には多くの詩が挿入されている。オーランドが作ったことになっている下手な恋愛詩を含め、その数は12に上る。会話が主体のこの劇に韻文を多く取り込むことで、劇をいっそう華やかなものにしようとする工夫だったといえる。

アーデンの森に住む羊飼いの男女、シルヴィウスとフィービーの物語は、「お気に召すまま」という劇のサブ・プロットとして、劇の進行にちょっとした色彩感を付与している。彼らも最後にはめでたく結ばれ、結婚の祝祭劇としてのこの喜劇を守り立てる役割を果たすのだ。

シェイクスピアの喜劇には、道化あるいは道化的人物がつきものだ。初期の作品の中でこの道化性をもっともよく体現していたのはフォールスタッフだった。タッチストーンはフォールスタッフのもっていた道化的性格をもっと純化した人格だといえる。彼は最初からひとびとに道化といわれながら登場する。実際の身分も公爵に召し使われる道化なのだ。

「お気に召すまま」の主な舞台となるアーデンの森に、この劇の主人公ロザリンドとオーランドは別々にやってくる。ロザリンドは男装して、従姉妹のシーリアとともに父親の老公爵と会いに、オーランドは迫害を逃れるために、兄の従者だったアダムを連れて。

シェイクスピア劇「お気に召すまま」の舞台アーデンの森は両義的な意味を持つ空間だ。追放されたものが一時的に身を隠す場所としては消極的な意味を持つ空間だが、森の自然の豊かさがそれを消極的なものに留まらせない。そこは他方では、宮廷生活の偽善や闘争といったものから自由な、人間性がそのままの形で花を咲かすことのできる理想の空間という積極的な意味ももっている。

「お気に召すまま」は即妙な会話が持ち味の劇である。その会話を洒落たものにしているのが、女主人公のロザリンドだ。彼女が次々と繰り出す言葉の綾が劇に色を添え、また身体で演ずる行動以上に劇に迫力をもたらす。

「お気に召すまま」 As You Like It はシェイクスピアの執筆活動の盛期を代表する喜劇である。この作品が上映された1599年に新しいグローブ座が完成した。この陽気な喜劇は完成したばかりの劇場の杮落しに相応しい祝祭的な雰囲気に満ちたものだ。シェイクスピアはこの後、彼の喜劇の最高傑作といわれる「十二夜」のほか「ハムレット」をはじめとする四大悲劇を立て続けに書いていく。

シェイクスピアのほかの喜劇と同様「空騒ぎ」も主人公の若い男女たちの結婚で終わる。それには道化訳のドグベリーの活躍によって、ヒーローの疑いが晴れたことが幸いしている。

シェイクスピアの喜劇は必ず結婚によるハッピーエンドで終わる。というより、途中の出来事がどんな展開をたどるにかかわらず、最後に恋人たちが結ばれれば喜劇、結ばれることなく死んだり引き裂かれたりすれば、悲劇となる。かように若い男女の結婚は、喜劇が成立するための必須条件なのだ。結婚が成立することなく終わるようなことがあれば、それは喜劇的な雰囲気をもっていても喜劇とはいわない。単なる笑劇に過ぎない。

「から騒ぎ」の中ではベネディックと並んで道化的な人物がもうひとり出てくる。警察官のドグベリーだ。警察官に犬の名を与えたのはシェイクスピア一流の才気からだろう。だがこの男は単純な道化ではない。劇の中で重要な役割を果たす上に、言葉の誤用 Malapropism を通じて複雑な笑いをもたらす。

「から騒ぎ」という喜劇を構成している主要な要素は二組の男女の恋だ。他のシェイクスピア喜劇同様、この劇にあっても男女の恋がモチーフとなっている。シェイクスピアの時代にあっては、シェイクスピアに限らず、喜劇というものは男女の恋を中心に展開するものだったのだから、当然といえる筋立てだ。

「から騒ぎ」という劇を彩っているものの中で最も印象的なのは、ベネディックとベアトリスの二人が繰り広げる舌戦 Tongue War だ。第一幕の第一場つまり劇が始まるとともに、この二人は舌戦を始め、互いに言葉で相手を圧倒しようとする。そしてその舌戦は二人が婚約を誓い合い、結婚へ向かって陽気な結幕を迎えるまで延々と続く。

空騒ぎ Much Ado about Nothing は、シェイクスピアの中期を代表するロマンスコメディだ。二組のカップルが試練を乗り越えて結ばれるという内容の恋物語だが、ただの恋物語ではない。カップルのひとつは、男嫌いと女嫌いが舌戦を交わしながら互いに魅かれあい、もう一組は悪党の陰謀によって一旦は仲を裂かれながら、最後には誤解が解けてめでたく結ばれる。同じ恋物語でも、ちょっぴりスパイスがきいた物語なのだ。

「ヴェニスの商人」の最後の場面はラヴ・コメディに相応しい洒落た趣向に満ちている。ポーシャはバサーニオとの愛の証に指輪を与え、それを誰にも渡さないと誓わせたのだったが、バサーニオは結果的には約束を破り、それを弁護士に扮したポーシャにやってしまう。そこのところをポーシャが追求してバサーニオを攻め立てるのだ。

ヴェニスの法廷を舞台に展開される人肉裁判は、当時の観客にとってもショッキングな内容だったろう。人肉を抵当にとるという話は、余りにも人倫から逸脱しているがゆえに、今日の読者にも荒唐無稽なものとしか映らない。こんな荒唐無稽なプロットを持ち込むことで、シェイクスピアはいったい何を狙ったのか。誰もがそういう疑問を抱く。

恋物語としての「ヴェニスの商人」のヒロインはポーシャだ。彼女は美しいだけでなく、父親譲りの膨大な財産を持っており、その上頭もよい。その明晰な頭脳を十分に回転させ、ヴェニスの法廷でシャイロックをへこませる。観客はそんな彼女の颯爽とした姿を見て、女性としてよりも、女性のかたちをした英雄、あるいは妖精のような存在として感嘆したことだろう。

「ヴェニスの商人」という劇に登場するキャラクターの中で、シャイロックは特別な存在だ。序論で述べたように、この劇は基本的には陽気な男女の陽気な恋の物語であって、ユダヤ人の金貸しが出てきて担保に人肉を取るという話は、劇にスパイスを利かせるためにシェイクスピアが挿入したサブプロットと位置づけるべきなのだが、それにしてはシャイロックという人物とその行動とが余りにも強烈なために、観客はこの人物に釘付けになってしまうのだ。

「ヴェニスの商人」という劇は、ユダヤ商人による人肉切り取りの話が最大のテーマだという観を呈している。そしてその人肉を担保に入れるヴェニスの商人アントニオこそが、形式上の主人公ということになっている。だがアントニオは主人公というには、いささか精彩に欠けている。

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