「バラ色の人生」 La Vie en Rose はエディット・ピアフ Edith Piaf の代表作であるにとどまらず、シャンソン史上の記念碑ともいうべき歌である。1946年にピアフがこの歌を歌いだすや、瞬く間に世界中の人々の心を捕らえた。
詩人の魂
エディット・ピアフ Edith Piaf (1915-1963) といえばシャンソンの女王といわれ、20世紀のシャンソン界を象徴する存在だ。その伝記を題材にしたフランス映画が上映されると聞き、大のピアフ・ファンである筆者は早速見に行った。
晩年のヴェルレーヌは酒びたりのただれた生活を送った。梅毒のために健康がさいなまれもし、病院を出たり入ったりもした。だが、詩人としての名声はようやく高まり、彼のもとには若い詩人たちが集まるようにもなった。
ヴェルレーヌの詩集「叡智」は、ランボーとの別れの苦さを歌ったものと、宗教的な改心を告白したものとからなっている。前者の多くは獄中で書かれた。
1873年の夏に、ランボーとの間に引き起こした事件がもとで、ヴェルレーヌは1年半余りモンスの刑務所に服役した。この間にヴェルレーヌは信仰上の回心を体験し、カトリックに深く帰依するに至る。そしてその信仰を膨大な詩に残した。詩集「叡智」に収められた作品群がそれである。
「わたしの心は悲しかった」と題するこの詩は、ヴェルレーヌの特徴である感傷性と音楽性が最もよく調和した逸品であり、彼の一つの到達点を示している。だが、そこには深い精神性は感じられない。どちらかというと、言葉がそれを発した人間とは無関係に、自分自身に酔っているような風情だ。
「言葉なき恋歌」に収められた作品には、恋のけだるさを歌ったものが多い。それらの恋が男女の間のものなのか、それともヴェルレーヌとランボーとの間のものなのか、一篇づつから読み取ることはむつかしい。
詩集「言葉なき恋歌」 Romances sans Paroles は、ヴェルレーヌがランボーとの痴話げんかがもとでモンスの刑務所に服役している間に出版された。時に1974年3月。ヴェルレーヌはまだ30歳になっていなかった。
ヴェルレーヌは友人シヴリーを通じてマチルド・モーテを紹介されるとたちまち恋に陥り、しつこく求愛するようになる。マチルドの両親はヴェルレーヌを警戒したようであったが、ヴェルレーヌはマチルド本人を陥落させようとして、愛の詩を作っては、せっせと送り届けた。その甲斐もあってか、ヴェルレーヌはマチルドと婚約することができたのである。
ヴェルレーヌは甘ったれた性格で、他人を思いやる心に欠け、どうしようもない類の人間だったようである。いわば重症の性格破綻者だったと思われるのだ。もし詩を書くことがなかったなら、鼻持ちならぬ人間として、世間から排除されてしまっただろう。
艶なる宴 Fêtes Gallantes は、ヴェルレーヌにとって実質的には第二歌集である。サチュルニアン詩集によって、彼の独創性は広く認められるようになったが、この詩集はその延長上にあって、音楽的な要素や、甘い感情を歌った。
「女の友達」はヴェルレーヌの第2詩集である。わずか6篇のソネットから成るこの小さな詩集を、ヴェルレーヌがどんな意図から世に出したのか。すでに第一詩集「サチュルニアン詩集」によって、独自の世界を築いていたヴェルレーヌは、自分の世界をもっと確かな形にしようと思ってこの詩集を編んだのかもしれない。
ヴェルレーヌはボードレールの落とし子の一人ではあったが、ボードレールのように猫を歌うことはあまりなかった。そんな中で猫をとりあげて歌ったこの詩は珍しいものといえる。だが、詩に歌われた猫は、ボードレールの猫とは異なり、人間の女を思わせるようだ。
「秋の歌」は、ヴェルレーヌの作品の中で、少なくとも日本人にとっては、もっとも親しまれているものである。ヴェルレーヌの詩を特徴付けているあの音楽的な要素が、これほど完璧に成功している作品はないと思われるのだ。
サチュルニアン詩集はヴェルレーヌにとっては思春期以降の詩作の総決算であったから、その中にはさまざまな要素が含まれている。中心をなすのはエリーゼへの愛であるが、そのほかの作品にも女への愛を歌ったものが多かれ少なかれ見出される。
サチュルニアン詩集 Poèmes saturniens はポール・ヴェルレーヌの処女詩集である。ヴェルレーヌがこの詩集を出版したとき、彼はまだ21歳の青年だった。いわばヴェルレーヌにとっての青春の歌とも言うべきものだが、詩に流れている雰囲気は、青年のものというよりは、人生の辛酸をなめつくした老人の嘆きを思わせる。
ポール・ヴェルレーヌ Paul Verlaine 1844-1896 は、19世紀末のフランスを代表する詩人たちの一人である。この時代のフランスの詩人たちにおおむね共通する特徴として、デカダンという言葉が使われるが、ヴェルレーヌはその言葉に最もふさわしい人物だったといえる。
「黄金時代」は、アルチュール・ランボーの韻文としては最後のもので、彼の一つの到達点をしめしている。だが、その内容は錯乱に満ちており、なまじな解釈を拒むものをもっている。
「言葉の錬金術」に「永遠」を載せるにあたって、ランボーは次のように書いている。
「至高の塔の歌」は、「涙」や「永遠」とともに、1872年5月、パリのムシュウ・ル・プランス街の屋根裏部屋で書かれた。この部屋のことは、同年6月エルネスト・ドラエイにあてた書簡の中で、ランボーは次のように書いている。
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